全国人口調査と推定人口
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「江戸時代の日本の人口統計」の記事における「全国人口調査と推定人口」の解説
全国の人口調査は享保の改革の一環として、享保6年(1721年)に始まった。享保6年旧暦6月21日付の布達には、「諸国領知之村々、田畑之町歩、郡切に書記、並百姓町人社人男女僧尼等其外之者に至る迄、人数都合領分限に書付、可被差出候。奉公人又者は不及書出候。惣而拝領高之外新田高は不及記、町歩計可被書出候。但無高に而反別計之新田も可為同前候云々。」とあり、田畑の面積調査と人口調査が同時に行われた。しかしながらこの布達により再検地への疑念などの混乱が生じため、続く旧暦6月29日の布達で、田畑の面積調査に関しては結局公認町歩を書きあげれば良いとし(この時の調査結果に関しては石高#享保6年田畑数参照)、人口調査に関しては過去の詳しい調査で代用して良いこと、武家方である「奉公人並又者」は人口調査の対象外とし、何歳以上の調査であるかを記載すること(逆に言えば、乳幼児・未成年人口の除外は御領(幕府直轄領)の代官、私領の大名・旗本の裁量に委ねられた)などが定められた。調査結果の報告猶予は8月までと短期間であったが、地方への交通手段や伝達方法も限られていたため、度重なる遅延があったようである。 2回目の人口調査が実施された享保11年(1726年)では田畑面積調査は行われず、人口調査のみが6年毎に実施されるようになった。以降人口調査は6年毎の子午年に実施されたが、最初の享保6年(1721年)の人口調査は子午年に相当しない臨時のもの(辛丑)であるため、これを正式な第1回の諸国人数調査とみなさない識者もいる。 調査の結果は「諸国人数帳」としてまとめられた。例えば国立公文書館所蔵『雑載』巻二十五「諸国人数帳 諸国郡名」に収録の「寛政十午年 諸国人数帳」では以下のように寛政10年(1798年)の人口が旧国別、男女別に集計されている。 「 寛政十午年[午改]諸国人数帳 松浦越前守 菅沼下野守一諸国人数之儀御領は御代官私領は領主より 去る子年之通当午年相改春中より十二月迄 書付差出集之壱冊に成候事一男女人数拾五歳迄之内領主にて相改候格例を以 改出候に付年齢不同有之候事一御朱印地除之寺社領人数も諸国人数 之内に籠り候事一江戸駿河京大坂奈良堺伏見大津長崎等之 町屋地子免許之場所並諸国城下町地子 免許之地之人数も勿論惣人数に不漏事一朱書を以記候高は元禄年中国所より差出候 御帳を以相記候事一向後も相触候に不及子年より午年に前々之通 相改差出候積之事一武家方奉公人並又者は諸国人数之内除候事 (朱書)高弐拾弐万四千弐百五拾七石余一 人数四拾八万九百九拾三人 山城国 内弐拾五万三百四拾三人 男 弐拾三万六百五拾人 女 (朱書)高五拾万四百九拾七石余一 人数三拾四万四千四拾三人 大和国 内拾七万六千九百八拾三人 男 拾六万七千六拾人 女(中略) (朱書)高無し一 人数壱万三千七百八拾六人 対馬国 内拾七千弐百七拾五人 男 拾六千五百拾壱人 女(朱書)高都合弐千五百七拾八万六千八百九拾五石余 諸国人数都合弐千五百四拾七万壱千三拾三人 内千三百三拾六万五百弐拾人 男 千弐百拾壱万五百拾三人 女 以上 寛政十午年十二月 」 このような形式の諸国人数帳の写本は幾つか残っているが、前文として箇条書きでかかれている内容はほぼ毎回同じである。すなわち6年毎の人口調査に関し、実際の調査月日は春から11月(天明以降は12月)までとしか定められておらず、各代官・領主に任されている。未成年人口に関しては、15歳以下についてはそれぞれの調査地域での慣例に従って集計することになっており、「武家方奉公人並又者」が除外人口とされている。また、元禄郷帳の石高(天保11年以降は天保郷帳の石高)が併せて記載された。幕府での実際の集計作業は調査年の翌年にずれ込むことも多かったらしく、諸国人数帳に記載の年月が翌年となっている場合もある。 諸国人数帳は総ての年度で残っているわけではないが、諸国人数帳から抽出された人口データが転載されることで、必ずしも完全ではないにせよ一部の数字が残るケースがある。以下幕府の史料や雑記に記録として残っている幕府調査による総人口と男女別人口をまとめる。実際の人口はこれらの幕府調査人口(領民人口)よりも多いはずだが、除外人口と脱漏人口を補正するために、幕府調査人口に対して17%(ビラベン, 1993年)または20%(鬼頭, 1996年)上乗して推計された総人口を参考までに列挙する。また『三暇謾録』には享保6年(1721年)から天保5年(1834年)まで、6年毎に調査された武蔵国の人口の記載があり、弘化3年(1846年)までの武蔵国の領民人口の変遷を完全に再現できるため、参考までに本表に掲載する。第4回の元文3年(1738年)、第16回の文化7年(1810年)、第17回の文化13年(1816年)の人口調査に関しては、総人口の記録は残っていない。 江戸時代の全国人口調査調査回次調査年次西暦総数男女出典Biraben(1993年)推計総人口鬼頭(1996年)推計総人口武蔵国領民人口第1回 享保6年 1721年 26,065,422 「国中人数石高之事」(『三暇謾録』;須田昭義「徳川時代人口に関する新資料」引用)「享保六丑同十一午同十七子 年諸国人数高書付」(『竹橋余筆別集』巻八) 30,496,900 31,278,500 1,903,316 第2回 享保11年 1726年 26,548,998 「享保六丑同十一午同十七子 年諸国人数高書付」(『竹橋余筆別集』巻八)「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 31,104,400 1,807,783 第3回 享保17年 1732年 26,921,816 14,407,107 12,514,709 「享保六丑同十一午同十七子 年諸国人数高書付」(『竹橋余筆別集』巻八)「享保十七子年十二月 日本国中十五歳以上人別高」(乙巳雑記』壱)「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 31,498,500 1,850,599 第4回 元文3年 1738年 n.a. 1,737,205 第5回 延享元年 1744年 26,153,450 『官中秘策』巻之一 30,599,500 1,787,021 第6回 寛延3年 1750年 25,917,830 13,818,654 12,099,176 『官中秘策』巻之一~巻之五「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 30,323,900 31,010,800 1,771,214 第7回 宝暦6年 1756年 26,061,830 13,833,311 12,228,519 「地理誌 第六」(『国史』巻二十三)『官中秘策』巻之一「日本国郡沿革考」(『吹塵録』上巻) 30,502,700 31,282,500 1,774,064 第8回 宝暦12年 1762年 25,921,458 13,785,400 12,136,058 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 30,328,100 1,737,158 第9回 明和5年 1768年 26,252,057 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 30,714,900 1,753,994 第10回 安永3年 1774年 25,990,451 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 30,408,800 1,707,719 第11回 安永9年 1780年 26,010,600 「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 30,432,400 1,702,784 第12回 天明6年 1786年 25,086,466 13,230,656 11,855,810 「天明寛政人数帳」(『日本経済大典』第四十八巻)「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻) 29,351,200 30,103,800 1,626,968 第13回 寛政4年 1792年 24,891,441 13,034,521 11,856,920 「寛政四子年 諸国人数帳」(国立公文書館内閣文庫所蔵『雑載』巻二十五「諸国人数帳 諸国郡名」)「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻)『甲子夜話』巻八十七 29,123,000 29,869,700 1,634,048 第14回 寛政10年 1798年 25,471,033 13,360,520 12,110,513 「寛政十午年 諸国人数帳」(国立公文書館内閣文庫所蔵『雑載』巻二十五「諸国人数帳 諸国郡名」)『寛政十午年 文政五午年 諸国人数帳 二冊』(国文学研究資料館所蔵)「享保十一年ヨリ弘化三年迄 子午改全国人口」(『吹塵録』上巻)『甲子夜話』巻八十七 29,801,100 30,565,200 1,666,131 第15回 文化元年 1804年 25,621,957 13,427,249 12,194,708 「天明寛政人数帳」(『日本経済大典』第四十八巻)「文化元甲子年 諸国人数調」(『吹塵録』上巻)「諸国人数帳」(井上瑞枝「大日本国古来人口考 (第三)」引用等) 29,977,690 30,746,400 1,654,368 第16回 文化7年 1810年 n.a. 1,674,669 第17回 文化13年 1816年 n.a. 1,675,300 第18回 文政5年 1822年 26,602,110 13,894,436 12,707,674 『寛政十午年 文政五午年 諸国人数帳 二冊』(国文学研究資料館所蔵)「諸国」『徳川理財会要』第五門 地方 巻三十一 戸口ノ部 31,124,500 31,913,500 1,694,255 第19回 文政11年 1828年 27,201,400 14,160,736 13,040,664 『嘉永五年壬子居闔国總人別寄帳写』(井上瑞枝「大日本国古来人口考 (第四)」引用)『武家必覧 泰平年表』巻之三十一「諸国」『徳川理財会要』第五門 地方 巻三十一 戸口ノ部『文恭公実録』巻之三 31,825,600 32,625,800 1,717,455 第20回 天保5年 1834年 27,063,907 14,053,455 13,010,452 篠崎亮「天保五年調査諸国人数帳」『諸国人数』(国立国会図書館所蔵) 31,664,800 32,476,700 1,714,054 第21回 天保11年 1840年 25,918,412 13,359,384 12,559,028 『諸国人数帳』(東京大学法学部法制史料室所蔵) 31,102,100 1,721,359 第22回 弘化3年 1846年 26,907,625 13,854,043 13,053,582 「弘化三丙午年 諸国人数調」(『吹塵録』上巻) 31,481,900 32,297,200 1,777,371 明治3年7月 1870年 32,794,897 16,733,698 16,061,199 庚午年概算 (全身分対象) 明治5年1月29日 1872年3月8日 33,110,825 16,796,158 16,314,667 壬申戸籍 (全身分対象) 1,943,211 なおこれらの人口は何れも琉球国の人口を含まない。また、『吹塵録』を編纂した勝海舟によると、第23回の諸国人数調査に当たる嘉永5年(1852年)の調査結果については、翌年の黒船来航や徳川家慶崩御の混乱により最終的な集計が行われなかったという。但し藩によっては嘉永5年、安政5年(1858年)、元治元年(1864年)の領民人口調査結果も残っている。
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