巻之一とは? わかりやすく解説

巻之一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/21 04:54 UTC 版)

天狗芸術論」の記事における「巻之一」の解説

大意」には、心のあり方説き、自然の法則に従うには、心術(=精神面)で志深く初学者には六芸をもって基盤形成し心法大道)に入るべきとし、幼い内から六芸を学ぶ者はわがままにならず、身体健常病身にもならず、心から国家のために尽くし、禄を無駄にしないと儒学見地から語られるまた、芸を道(精神大道)と解釈するような誤りあってはいけないと記し心術心法区別している。 ある剣術家牛若丸時代源義経(の伝説)に習い山中入り修行をしていたが、奥意をつかめず、満たされずにいた。牛若丸のように天狗その道則を教わろうと何度も呼ぶも応答がない。ある夜、山中に風が起こり、翼のある天狗数人雲中にて叩き合っていた。しばらくして全員(こずえ)に坐して語り合い始めた1人目の天狗は、古の芸術修行の手段を説明する古人その時応じるのみと教えたと。心が剛でも技に熟さなければ応じることはできず、技は気をもって修練する。気は心作用で形を使う。だから「気の要」は、滞ることなく剛健にして屈せざること。技の中の道理と器たる心身機能合致し、技が熟せば、気と融和し、技の中の理が現れ、心に疑い無くなった時、事理(技と原理一致して、気が収まり精神安定し応用支障無くなる。ゆえに芸術修練を要とする。技が熟さなければ、気は和せず、形も従わず心と形と2つになり、自在にならなくなる。 2人目は、刀は切るもの、は突くもので、他に用いことはなと言い、体は気に従い、その気は心に従うと説き始める。心が動じない時は気も動ぜず、心が平で物事捉われていない時は気も和して従い、技は自然に応じる。心が捉われれば、気は塞がり手足用いることに応じられない。技に心を留めれば、気が滞って和せず、心を強めて捉われて、虚になり弱になる。そして意識し過ぎることの害を説き、「懸(かかる)の中の待つ、待つの中の懸(懸待一致)」を悪く心得れば意図的となって大害となり、自在に動けいどころか、敵に翻弄される一方未熟者の方が応用所作知らないから、ここを防ぎ、ここを打とうといった心(意図)が無いので、心気共に滞らず、世間のいう大形兵法者よりも気の位では勝る所があるとしつつ、滞らないが、無知血気任せて、(結果として無心なだけであるという。自然の妙用に形や相はなく、ゆえに気に形が生じれば、敵は形ある所を打ち、心に思うことなく、気が和して定まらない時は形なく、自在に動ける。だから意図的に剛にしなくても自然体で剛になる。思い意図)がわずかにあれば、心の明かさ塞がり自在でなくなると述べた3人目は、2人目の反論述べつつ、切るには切る技、突くには突く技があると主張。心が剛であっても形(体の動き)に背く時、当たってはいけない所に当たり、技が理に違えば達する所に届かない捉われていない僧でも技に熟さなければ、用はなせないということ説明し弓矢引いて用いることは誰でも知っているが、技に熟さない者が射ても的の堅板は貫けないとし、弓の性質逆らわず、弓我一となって無心放ちその後変わらないままの状態が弓道習い語り始める。意識して得られることでなく、理を知っても、心に徹し、技に熟し修練の功を積まなければ、得られない弓を引いて保つには、内で志正しく、外で体の姿正しくなければならず、力任せに引けば、弓と争い2つとなり、逆に弓の力を妨げ勢い無くす。また、気と心の状態を儒書用語を引用して説明し、気を練り、心を修し修行熟した時こそ、剣術則に達すると説く。気で破るも心で破るも一つであり、心気一つなければ相手破れない。ただし、気に弱い所があり、わずかに疑う心があるなら、この心術実行しない方がいいとも語った天狗達が論ずる中、大天狗と見られる姿の1人が語る。各論には、皆、理が含まれているとし、古人稽古法語り始める。昔の師は無暗に口で教えず、弟子苦心の末、自得し、それを師が確認し満足のいく答えなら認めただけと。芸術限らず儒教といった学術も昔はそうであり、ゆえに昔は奥深かったその上で、今の人の在り方横着心を語り、昔の方法でやれば、修行者がなくなるから、今は師の方から教え聞かせ、手にとって指導するといった。昔の人言葉足らずなのではなく今の世理屈ばかりなのだと。技は理により生じ無形のものは有形のものの主。ゆえに気によって技を修練し、心によって気を修練するのが順序。しかし例外もあるとし、舟人、瓦職人を例に説明していく。天狗達は次々と質問し剣術の道は生死2つ分けず同一意識する者が自在働きをすると説いたり、剣術家禅僧修行趣旨異なり後者死に動じないが、生きるための役に立たず、死を嫌わないだけのことといって、(儒家聖人生きる場合生に任せ、死ぬ場合死に任せ生死によって心を二分しないと説く。僧は生きるための技芸関心がないからその技芸自在にできないが、聖人学問生きる時は生の道を極め、死の時は死の道を極める違い明らかにし、有用性説く。 昔から剣術家禅僧会い則を悟る者がいるのはなぜかという問いに、大天狗は、僧が剣術則を伝えた訳でなく、心にこだわりのない時は、よく変化に対応でき、生に執着すれば、逆に生きること苦しくなり、この世を悪いものと思えば、心が理不尽に働き生き方を誤ることを示しただけ。これは長年、気と技を修練した者だからこそ悟れたのであって未熟者名僧にあったところで、悟り開けない答えた

※この「巻之一」の解説は、「天狗芸術論」の解説の一部です。
「巻之一」を含む「天狗芸術論」の記事については、「天狗芸術論」の概要を参照ください。


巻之一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 03:15 UTC 版)

雨夜譚」の記事における「巻之一」の解説

余が少年時代 1840年 武蔵国現在の埼玉県深谷市)に生まれる。 1845年 読み書きをはじめる。 1853年 家業農耕養蚕藍玉製造)を助けて働く。 立志出郷関 1863年 攘夷のため高崎城占領横浜焼討ち計画。しかし八月政変前後京都見てきた尾高長七郎説得断念

※この「巻之一」の解説は、「雨夜譚」の解説の一部です。
「巻之一」を含む「雨夜譚」の記事については、「雨夜譚」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「巻之一」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「巻之一」の関連用語

巻之一のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



巻之一のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの天狗芸術論 (改訂履歴)、雨夜譚 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS