ニュース週刊誌としての創刊とは? わかりやすく解説

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ニュース週刊誌としての創刊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 18:55 UTC 版)

ライフ (雑誌)」の記事における「ニュース週刊誌としての創刊」の解説

1936年出版者ヘンリー・ルース総合雑誌ライフ』のブランドを9万2ドル買収した。それは、「人生」を意味するライフ」という名前が、彼の出版社タイム社にふさわしいと考えたからである。ルースは、写真が、説明する文章同じくらいに物語伝えることができると確信しており、写真中心としたニュース雑誌として、『ライフ』を1936年11月23日に新創刊した。1923年の『タイム』、1930年の『フォーチュン』に続いてルース発行した3冊目の雑誌である『ライフ』は、アメリカにおける画期的なグラフ雑誌として発展した創刊号10セント2019年物価換算で1.84ドル)で9000部が販売され32ページアルフレッド・アイゼンスタットによる写真が5ページわたって掲載されていた。初代編集長はクルト・コルフだった。 ニュース週刊誌企画するにあたりルース1936年タイム社内で機密目論見書発行したが、それには新しい『ライフ』誌のビジョンと、彼が目的としていたもの記されていた。ルースは『ライフ』誌を、写真中心とする、アメリカ一般の人々目に触れることが可能な最初の出版物とするつもりだった。 To see life; to see the world; to eyewitness great events; to watch the faces of the poor and the gestures of the proud; to see strange things — machines, armies, multitudes, shadows in the jungle and on the moon; to see man’s work — his paintings, towers and discoveries; to see things thousands of miles away, things hidden behind walls and within rooms, things dangerous to come to; the women that men love and many children; to see and take pleasure in seeing; to see and be amazed; to see and be instructed... 人生見よう世界見よう大きな出来事目撃しよう。かわいそうな人々の顔や偉ぶった人々仕草見よう奇妙なもの(機械軍隊民衆ジャングルや月の影)を見よう人間仕事絵画、塔、発見)を見よう。何千マイル離れたところにあるもの、壁の向こう部屋中に隠されたもの、近寄ると危険なもの、男たち愛す女性多くの子供たちを見よう見て喜び感じよう見て驚き覚えよう見て教えられよう... この最初2つフレーズ"To see Life; to see the world"(人生見よう世界見よう。)は、『ライフ』のモットーとなった創刊号表紙は、マーガレット・バーク=ホワイト撮影した公共事業促進局事業により作られフォートペックダム英語版)(ミズーリ川流域)の写真だった。 1936年の『ライフ』のフォーマットは、瞬く間古典的なものとなったテキスト50ページ写真キャプション凝縮されていた。この雑誌は、厚いコート紙印刷されているにも関わらず値段はわずか10セントだった。発行部数会社予想超えて急上昇し創刊号38部から4カ月後には週に100万部を超えるまでになった。この雑誌成功は、その1年後の1937年創刊され1971年まで続いたルック』など、多く模倣雑誌生んだルース1937年に、『タイム』誌の非常勤記者だったエドワード・クレイマー・トンプソン(英語版)を写真担当副編集長抜擢した。彼は1949年から1961年まで編集長務め1970年引退するまでの約10年編集主幹務めた。彼は、1936年から1960年代半ばまでの『ライフ』の全盛期大きな影響与えたトンプソンは、編集者自由に行動することを許していたことで知られていた。特に、ファッション担当サリー・カークランド英語版)、映画担当のメアリー・リザビー(英語版)、現代生活担当のメアリー・ハムマン(英語版)の3人の女編集者が、"trio of formidable and colorful women"(手強く派手な三人娘)として知られていた。 1941年アメリカ第二次世界大戦参戦すると、『ライフ』もそれを取り上げた1944年には、タイム誌ライフ誌40人の戦争特派員のうち、7人が女性だった。アメリカ人メアリー・ウェルシュ・ヘミングウェイマーガレット・バーク=ホワイト、ラエル・タッカー、ペギー・ダーディン、シェリー・スミス・マイダンズ(英語版)、アナリー・ジャコビー、そしてイギリス人のジャクリーン・サイクスである。 『ライフ』は、毎週発行される雑誌で、戦争遂行支援していた。1942年7月、『ライフ』は兵士対象とした初のアートコンテストを開始し、全階級から1,500点以上の応募があった。最優秀作品には1千ドル賞金授与され16点選んで雑誌掲載したワシントンD.C.ナショナル・ギャラリーは、その年の夏に117点の応募作品展示することに同意した。『ライフ』は、戦争記録するために芸術家利用しようとする軍の取り組み支援した軍隊政府資金芸術家提供することが議会により禁じられたため、『ライフ』はその取組み引き継ぎ国防総省雇っていた多く芸術家雇用継続した。『ライフ』が継続していたこの取組みは、1960年12月7日アメリカ陸軍アートプログラム(英語版)などに引き継がれた。 第二次世界大戦中、『ライフ』は太平洋からヨーロッパまで全てのアメリカ戦場写真家送り毎週アメリカ人戦争伝えたまた、敵側プロパガンダで、Life(生)をDeath(死)に入れ替えて使用された。 1942年8月デトロイトでの労働人種をめぐる不安について、『ライフ』は次のように書いて警告した。「士気状況は、おそらくアメリカで最悪のものである....この国の他の人達は、立ち上がって注意持って監視するべきである。デトロイトは、ヒトラー吹っ飛ばすか、アメリカ吹っ飛ばすかのどちらかだ。」エドワード・ジェフリーズ(英語版市長はこれを読んで激怒した。「デトロイト愛国心アメリカのどの都市にも負けない。『ライフ』の記事は全くのデマだ... 私ならイエロー雑誌呼んで放っておくよ」と語った。この記事戦争遂行にとっては非常に危険と考えられ北米以外販売された『ライフ』誌からは検閲英語版)により除去された。 『ライフ』は、著名な戦争写真ロバート・キャパ契約した。『コリアーズ(英語版)』誌のベテランであるキャパは、1944年6月6日ノルマンディー上陸作戦第一波D-デイ)に同行したが、撮ってきたのはほんの僅かな写真だけで、その多くピント合っていなかった。『ライフ』誌に掲載され写真キャプションには、キャパの手震えていたために写真ぼやけていたと書かれていた。キャパはそれを否定し暗室のせいでネガ台無しになったと主張した。後にキャパは『ライフ』誌のキャプションからかって1947年刊行した戦争写真集のタイトルSlightly Outly Out of Focusわずかにずれたフォーカス)とした。1954年キャパ第一次インドシナ戦争取材中に地雷踏んで死亡した。『ライフ』の写真家ボブ・ランドリーもD-デイ同行したが、「ランドリーフィルムはすべて失われ、靴も失われた」という。 特筆すべき誤報として、1948年大統領選挙直前の号で、大統領候補トーマス・E・デューイらがサンフランシスコ湾フェリー渡っている様子大きな写真に"Our Next President Rides by Ferryboat over San Francisco Bay"(次期大統領サンフランシスコ湾フェリーで渡る)という見出しをつけたことがある。この選挙では、現職ハリー・S・トルーマン地滑り的当選果たした。なお、この選挙では他の新聞等でも同様の誤報(『シカゴ・デイリー・トリビューン』のデューイ、トルーマンを破るなど)があった。 1950年5月10日エジプト閣僚会議は『ライフ』誌を国内から永久に追放した販売中全ての雑誌没収された。理由発表されていないが、1950年4月10日に「エジプト問題王」と題してファールーク1世国王に関する記事掲載したことに対し政府はそれを国を侮辱していると考えたためと見られている。 1950年代の『ライフ』は、一流作家仕事依頼することで、一定の評価得ていた。1951年にはアーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』が『ライフ』誌に掲載され、翌1952年出版された。その後ヘミングウェイは『ライフ』誌から闘牛に関する4,000語の記事執筆請け負った。彼は1959年スペイン訪問し2人のトップマタドールの間で行われた一連の闘牛大会取材した後、10,000語の記事送った。この記事は、1985年中編小説危険な夏(英語版)』として出版された。 全世界900万人鑑賞した1955年ニューヨーク近代美術館巡回展「ファミリー・オブ・マン(英語版)」では、キュレイターエドワード・スタイケンは『ライフ』の写真多用した。アビゲール・ソロモン=ゴドー英語版によれば20%以上が『ライフ』の写真でだった。スタケインの助手であるウェイン・F・ミラー英語版)は、1953年後半から『ライフ』誌のアーカイブ入り推定9ヶ月間を費やして写真選んだ。彼は350万枚画像探し回り、そのほとんどがオリジナルネガの形であり、雑誌掲載されていない画像選定してスタイケン提出した写真部門が渡され全てのフィルムコンタクトプリントにするようになったのは戦争末期入ってからである)。 1954年11月女優ドロシー・ダンドリッジが、アフリカ系アメリカ人女性として初めて『ライフ』の表紙飾った1950年代終わり迎えテレビ人気が高まるにつれ、同誌は読者を失うようになった1959年5月には、店売りでの定価1部25セントから20セント値下げすることを発表したテレビ売り上げ視聴者数の増加に伴いニュース雑誌への関心薄れていった。『ライフ』は新しい形変化する必要に迫られていた。

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