タイム社
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1922年、当時23歳だったルースとハデンは、ニュース雑誌のコンセプトについて毎晩議論したことがきっかけで、今の仕事を辞めてニュース雑誌を創刊することにした。その年の後半、ロバート・リヴィングストン・ジョンソン(英語版)と、もう一人のイェール大学の同級生とパートナーを組み、ニューヨークでタイム社(Time Inc.)を設立した。10万ドルの目標のうち8万6千ドルを集め、1923年3月3日に『タイム』誌の創刊号を発行した。ルースはビジネスマネージャーを務め、ハデンが編集長を務めた。ルースとハデンは社長と会計秘書を毎年交互に務め、ジョンソンは副社長と広告部長を務めた。 1925年、ハデンがヨーロッパを訪問中に、ルースは本社をニューヨークからクリーブランドに移転することを決めた。クリーブランドの方が物価が安く、ルースの最初の妻ライラがニューヨークを離れたがっていた。ハデンが帰国したとき、彼は愕然とし、本社をニューヨークに戻した。1929年にハデンが急死し、ルースがハデンの職を継いだ。 ルースは1930年2月にビジネス雑誌『フォーチュン』を創刊し、1936年11月には『ライフ』を買収してフォトジャーナリズムの週刊誌として再創刊した。彼はまた、ラジオ番組やニュース映画のシリーズ『マーチ・オブ・ザ・タイム(英語版)』を制作した。1960年代半ばまでには、タイム社は世界で最大かつ最も権威のある雑誌出版社となっていた(1930年代に『フォーチュン』誌のスタッフだったドワイト・マクドナルド(英語版)は、イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニのことを「イル・ドゥーチェ」(Il Duce)と呼ぶのを真似て、ルースのことを「イル・ルーチェ」(Il Luce)と呼んでいた)。 フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、ほとんどの出版社が自分に反対していることを認識していたため、1943年に、全ての出版社とメディアの幹部に対し戦闘地域を訪問することを禁止する命令を出した。ルーズベルトはジョージ・マーシャル将軍にその命令の施行を担わせた。その命令の主なターゲットは、ルーズベルトに長い間反対していたルースであった。歴史家のアラン・ブリンクリー(英語版)は、もしルースが戦闘地域の訪問を許可されていたら、彼は世界中のアメリカ軍を熱狂的に応援していただろうとして、この動きは「間違っていた」と主張している。しかし、ニューヨークで足止めを食らったルースのフラストレーションと怒りは、あからさまな党派性を以て表現された。ルースは1944年に、編集長のT・S・マシューズ(英語版)の支持を得てウィテカー・チェンバース(英語版)を外国報の臨時編集長に任命したが、チェンバースは現場の記者との確執を抱えていた。 1964年までタイム社の全ての出版物の編集主幹を務めたルースは、共和党の有力なメンバーとしての地位を維持した。反共主義的な感情を持ち、共産主義との戦いという名目で『タイム』を利用し、右翼の独裁者を支持した。いわゆる「チャイナ・ロビー」の後ろ盾となった人物であり、中国国民党の指導者である蔣介石とその妻である宋美齢による対日戦争を支持するようにアメリカの外交政策や国民感情を舵取りする上で大きな役割を果たした(『タイム』誌の表紙には、1927年から1955年までの間に11回、蔣介石と宋美齢が登場している)。 共和党政権で国務長官になるという野心を抱いていたルースは、1941年に『ライフ』誌に「アメリカの世紀」と呼ばれる有名な記事を執筆し、20世紀の残りの期間とそれ以降のアメリカの外交政策の役割を定義した。
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