バアス党政権 (シリア)とは? わかりやすく解説

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バアス党政権 (シリア)

(シリア・バアス党政権 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 15:17 UTC 版)

シリア・アラブ共和国
الجمهورية العراقية (アラビア語)
كۆماری عێراق (クルド語)
1963年 - 2024年
国旗国章
国の標語: なし
国歌: حماة الديار(アラビア語)
祖国を守る者たちよ

シリア・アラブ共和国の位置
公用語 アラビア語
首都 ダマスカス
大統領
1963年 - 1966年 アミーン・アル=ハーフィズ英語版
1966年 - 1970年ヌーレッディーン・アル=アターシー英語版
1971年 - 2000年ハーフィズ・アル=アサド
2000年 - 2024年バッシャール・アル=アサド
首相
1963年 - 1963年サラーフッディーン・アル=ビータール(最初)
2024年 - 2024年ムハンマド・ガーズィー・アル=ジャラーリー英語版(最後)
面積
2024年185,180km²
人口
2022年21,563,800人
変遷
3月8日革命 1963年3月8日
1966年シリアクーデター1966年2月21日 - 2月23日
矯正運動1970年11月13日
シリア内戦の勃発2011年3月15日
アサド政権の崩壊2024年12月8日
通貨シリア・ポンド (YTL)
時間帯UTC +3[1]DST: なし)
ccTLD.sy
国際電話番号963
現在 シリア

バアス党政権(バアスとうせいけん)では、1963年から2024年までの間、シリアを支配したバアス党政権について記述する。国号はシリア・アラブ共和国であり、イラクなど他国のバアス党政権と区別する場合はシリア・バアス党政権とも称される。

前史

シリア第一共和国(1930年-1950年)

1930年5月14日フランスの委任統治下でシリア憲法が採択され、シリア第一共和国が成立した。1936年9月9日にフランス・シリア独立条約が締結され、1944年に独立宣言を行った。1945年10月24日国際連合に加盟した。

1938年9月7日には北西部アレクサンドレッタ県がハタイ国として分離、後にトルコ共和国に編入されハタイ県となり、現在に至るまでトルコ・シリア間の領土問題となっている。

1946年4月17日フランス軍が撤退したことで正式な独立国となった。

1950年9月5日には民主的憲法を採択、シリア第二共和国に移行した。

シリア第二共和国(1950年-1958年、1961年-1963年)

1950年の憲法により成立した。しかし、クーデターによって成立したアディブ・シシャクリ政権(1953年-1954年)下では憲法が停止されていた。

アラブ連合共和国への合流によりシリア第二共和国は一時解散したが、1961年にアラブ連合共和国を脱退したことで復活した。

アラブ連合共和国(1958年-1961年)

1958年2月1日エジプトと合併してアラブ連合共和国を結成した。

1961年9月28日にシリアはアラブ連合共和国を脱退、アラブ連合共和国は解体された。

歴史

バアス党政権成立

1963年3月8日のクーデターによってバアス党が政権を掌握し、シリアは事実上の一党独裁体制に移行した。この政権は「アラブ社会主義」の実現を掲げ、農地改革や国有化を進めた。しかし、党内の派閥抗争が激化し、政治的不安定が続いた。

ハーフェズ・アル=アサド時代(1970年-2000年)

1970年、ハーフェズ・アル=アサドが「修正運動」と呼ばれる軍事クーデターで権力を掌握した。彼の統治下でバアス党体制は安定化し、強権的な統治が敷かれた。ハーフェズは秘密警察や軍を用いて反体制派を徹底的に弾圧し、個人崇拝を築き上げた。

外交ではソ連と密接な関係を持ちつつ、アラブ諸国の統一を掲げたが、1973年の第四次中東戦争以降、イスラエルとの対立が続いた。また、1982年のハマー虐殺など、国内での反体制運動への弾圧も厳しく批判された。

バッシャール・アル=アサド政権(2000年-2024年)

ハーフィズの息子バッシャールが権力を引き継いだ。就任当初のバッシャールは腐敗撲滅や政治改革に向き合う姿勢を示しつつ、一方で体制の維持を優先した。しかし、2011年に発生した「アラブの春」の波及で反政府デモが拡大し、やがて内戦へと発展した。

シリア内戦

2011年に発生したアラブの春の影響がシリアにも飛び火し、シリア内戦が勃発した。政府軍、反政府勢力、イスラム過激派、外国勢力が入り乱れる複雑な構図を形成した。ロシアやイランの支援を受けたアサド政権は戦争初期に劣勢となるも、2015年以降、ロシア軍の介入により反転攻勢に出た。

内戦は2020年代まで長期化し、経済崩壊、国民の大量流出、インフラの破壊など、未曾有の被害をもたらした。最終的に、2024年12月8日に首都ダマスカスが陥落し、アサド政権は崩壊。アサド家による53年の統治を含めて60年以上に及んだバアス党政権は終焉を迎えた。

政治システム

バアス党政権下のシリアは名目的には共和制であったが、実質的にはバアス党による一党独裁体制であった。大統領は広範な権限を持ち、特にアサド家英語版の個人支配が顕著であった。

国家権力は秘密警察や軍部を通じて集中管理され、反体制派は徹底的に弾圧された。また、憲法でバアス党を「国家と社会を指導する党」と規定することで他党の活動を制限していた。

外交

バッシャール・アル=アサド

シリアの外交は、バアス主義に基づく汎アラブ主義を基軸としていた。冷戦期にはソ連との友好関係を維持し、西側諸国と距離を取った。

内戦期にはロシアイランがアサド政権を支援する一方、トルコアメリカ、湾岸諸国が反体制派やクルド人勢力を支援し、代理戦争の様相を呈した。

経済

バアス党は「アラブ社会主義」を掲げ、農地改革や主要産業の国有化を推進したが、経済の停滞を招いた。特にハーフェズ政権下では、汚職や非効率的な経済運営が深刻化した。

バッシャール政権下では市場経済化が進められたものの、内戦の勃発により経済は壊滅的な打撃を受けた。石油収入の激減、国際的な経済制裁、失業率の急増などがシリア国民の生活を圧迫した。

脚注

  1. ^ Syria and Jordan Ditch DST Clock Changes. timeanddate.com、2022年10月9日閲覧。



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