アンナ・アンダーソンとは? わかりやすく解説

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アンナ・アンダーソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 14:38 UTC 版)

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アンナ・アンダーソン
1922年
生誕 1896年12月16日
ドイツ帝国  プロイセン王国 西プロイセンボロヴィーラス英語版
死没 1984年2月12日(87歳)
アメリカ合衆国 バージニア州 シャーロッツビル
職業 無職
配偶者 ジャック・マナハン(1919年 - 1990年5月22日)[1]
フランツィスカ・シャンツコフスカ(1913年頃)
アンナ・アンダーソン(1920年)
皇帝侍医の息子で、アナスタシアの遊び相手でもあったグレブ・ボトキンは亡くなるまでアンダーソンの根強い支持者だった
イングリッド・バーグマンはアンダーソンの主張に影響されて1956年に制作された映画『追想』で主演してアカデミー賞を受賞した(写真は1946年)

アンナ・アンダーソン(Anna Anderson、1896年12月16日 - 1984年2月12日)は、ロシア皇女アナスタシアを自称したアメリカ人女性。王族偽装者の一人である。

生涯

1920年ドイツベルリンで、記憶喪失の自殺未遂者として精神病院に収容されたアンダーソンは、自分はロシアから処刑を逃れ脱走してきたアナスタシアであると周囲に説いた。というより、最初に周囲が勝手にアナスタシアではないかと騒ぎ、やがて記憶を失っていた本人も「アナスタシアだったことを思い出した」のであり、意図的な詐称というより、一種の虚偽記憶(もしくは嘘を繰り返しているうちに、自分自身が真実と信じ込んでしまった)と思われる。彼女には、赤の他人を説得する天性の才能があり、耳の形や足の異常形態などアナスタシアと酷似する身体的特徴もあった。さらに、旧皇室に関わった者しか知り得なかった子細な事柄についての知識があったことから、ロマノフ家に連なる旧ロシア貴族の一部を含む、多くの支持者を得た。

ついには、1920年代にドイツでロシア帝室の莫大な遺産をめぐる訴訟を起こすが、ロシア語が話せない、苦手であったはずのドイツ語を話す、記憶が肝心なところであやふやになる、顔が明らかに違うなど多くの疑問点が生じた(但しこれらの疑問点にも反論の余地があるとされている)。訴訟は長期化し、最終的には真偽の確定が不可能として却下された。ロシア帝室生存者も一部を除いてアンダーソンを拒否し、アナスタシア本人をとりわけよく知る祖母マリア・フョードロヴナ皇太后も決して会おうとはしなかった。しかし、ロシア帝室主治医エフゲニー・ボトキンの息子でアナスタシアの遊び相手であったグレブ・ボトキンやその姉のタチアナ・ボトキナなど、根強い支持者も多かった。

その後、支持者の援助で1968年にアメリカ合衆国に定住、アメリカ人ジャック・マナハン(Jack Manahan)と結婚してノースカロライナ州に居住、最後まで自分はアナスタシアであると主張し続けた。この結婚はアンダーソンにアメリカ市民権を取らせるためのものであり、アナスタシアの信奉者のひとりであった裕福な夫は、自分は将来ロシア皇帝になる男であるとことあるごとに吹聴し続けた[注 1]。発見されて以来1984年に死去するまでアンダーソンは生涯一度も職業を得ず、支持者からの援助金で暮らした。晩年は奇行が目立ち数十匹の猫を放し飼いにしたため、しばしば町から追放されそうになった。

アナスタシアを名乗る偽者は、1920-30年代に少なくとも30人が確認されているが、その中でこれほどの支持を集めたのは、アンダーソン一人だけで、彼女の類稀なる才能のおかげといえる。1920年代にはヨーロッパ社交界の華となり、ハリウッドで2度も映画化され、少なくとも3本のTVドキュメンタリーが作られ、ニクソン大統領の就任式にも呼ばれた。これほど彼女が成功した間接的な理由は、ロマノフ一族全員の殺害命令を下したレーニンが、ニコライ2世一家処刑後に、「ニコライ2世は処刑されたが、家族は安全な場所にいる」という嘘の公式発表をしたことや、ソヴィエト政権がアナスタシアを含むロマノフ一族を処刑した事実を、ソ連崩壊まで隠蔽し続けたことによる。

正体

アンダーソンは1984年に死去したが、1989年にアナスタシアの弟であるアレクセイ皇太子と、第3皇女マリア以外のニコライ2世一家と推定される5人の遺骨がロシアで発見された。ミトコンドリアDNA鑑定の結果、これらの遺骨は確かにロマノフ家の一員の物であることが確認された。

アンダーソンの死後10年を経た1994年に、イギリスのFSS(Forensic Science Service)が彼女の小腸標本からのミトコンドリアDNA鑑定を行った。これはアレクサンドラ皇后の姉がイギリス女王エリザベス2世の夫君エジンバラ公の母方の祖母にあたることから、エジンバラ公・ロマノフ家の一員であることが確認されている皇女・アンダーソンの三者のミトコンドリアDNAを較べるという、かつてない科学的な検証だった。その結果、エジンバラ公と遺骨のDNAは確かに一致したが、アンダーソンのDNAはこのどちらとも一致しなかった。

その代わりにフランツィスカ・シャンツコフスカの甥のカール・マウハーとはDNAが一致した。アンダーソンの正体はポーランド人農家の娘フランツィスカ・シャンツコフスカ(Franziska Schanzkowska、1896年12月16日生 - 1920年3月失踪)である可能性が少なくとも99.7%である、と学術誌『ネイチャージェネティクス(Nature Genetics)』に発表された[2]

出稼ぎ労働者としてベルリン爆弾工場で働いていたフランツィスカは、手榴弾を誤って落とした事故で重傷を負い(その際、同僚は爆死)、精神不安定となって、アナスタシアとして現れる数週間前に消息不明となっている。事実、フランツィスカとアンダーソンの写真は酷似しており、1927年にアンダーソンを認めていなかった元ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒが私立探偵に調べさせて、アンダーソンがフランツィスカであると発表していた。さらに1930年代に彼女の兄弟がアンダーソンと面会した際(この面会は、ヒトラードイツ総統府の催促で実現した)兄弟は自分たちの姉妹であると認めている(しかし、その後兄弟は「姉の新しい“仕事”を邪魔してはいけない」と前言を撤回)。アンダーソンはこの爆発による体中の傷を、銃殺処刑をかろうじて逃れた証拠と主張していた。

しかしアナスタシアを信奉する信者の活動は、アメリカ人作家ピーター・カース(Peter Kurth)を始め根強く、アメリカではいまだにほぼ毎年アンダーソン関連の著作が出版されている。小腸の標本が本人のものではない可能性を示唆する論者も存在する[3]

なお、山田風太郎は「人間臨終図巻」で、アナスタシアと称する女性が「偽物であったらともかく、本物であったとしたら、そして『私は私である』ということを世界中の誰も認めないとしたら……これほど悩ましい悲劇はちょっとあるまい」と述べている。

関連作品

ノンフィクションとセミノンフィクション

  • ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)『アナスタシア 消えた皇女』(角川書店、1998年)
  • 柘植久慶『皇女アナスタシアの真実 』(小学館、1998年)、『傭兵見聞録』(集英社 、1991年)
  • 桐生操『皇女アナスタシアは生きていたか』(新人物往来社、1991年)
  • Peter Kurth 『Anastasia: The Riddle of Anna Anderson』(Back Bay Books、1985年)

フィクション

小説

映画

  • 追想』(原題:Anastasia、1956年)

テレビ

漫画

  • ゴルゴ13』 第262話「すべて人民のもの」

コンピュータゲーム

脚注

注釈

  1. ^ 仮にアンナがアナスタシアであったとしてもその夫に帝位の継承権があるわけではない。
  2. ^ 正確には、本物のアナスタシアが主人公の一人であり、ラストでもう一人の主人公から、「アンナ・アンダーソン」という新たな身分を与えられる、という展開。

出典

  1. ^ Tucker, William O., Jr. (5 July 2007), “Jack & Anna: Remembering the czar of Charlottesville eccentrics”, The Hook (Charlottesville, Virginia: Better Publications LLC), http://www.readthehook.com/stories/2007/07/05/COVER-jackManahan-I.rtf.aspx 2009年7月3日閲覧。 
  2. ^ Establishing the identity of Anna Anderson Manahan” (英語). Nature Genetics. 2014年2月1日閲覧。
  3. ^ 山口敏太郎「アナスタシアの悲劇」『不思議大陸アトランティア 発動編』1号、力石幸一編、徳間書店〈TOWN MOOK〉、2009年、104頁。ISBN 978-4-19-710208-2

関連項目


アンナ・アンダーソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:43 UTC 版)

アナスタシア・ニコラエヴナ」の記事における「アンナ・アンダーソン」の解説

詳細は「アンナ・アンダーソン」を参照 僭称者の中で最も知られているアンナ・アンダーソンは1920年2月18日ドイツ国ベルリン自殺しようとしていたところを発見された。以下は当時取り調べた警察残した公式記録である。 「 1920年2月18日ベルリン身元不明の娘による自殺未遂事件昨日午後9時、20歳前後の娘が自殺意思持って、ベントラーからラントヴェール運河英語版)に飛び込んだ。娘は巡査部長助け上げられ、ルツォウ通りエリーザベト病院収容された。所持品中には身分証明書貴重品に関する物は皆無で、娘は自分身元についても、自殺未遂動機について口を閉ざして語ろうとしない。 」 自殺未遂から2年後1922年6月30日に、突然倒れてモルヒネ投与されアンダーソン保護してくれたクライスト男爵夫妻自分アナスタシアであると話したエカテリンブルク惨劇時に銃弾受けて意識失っていたところを、まだ生きていることに気付いた一家同情的なアレクサンドル・チャイコフスキーという名の警護兵によって助けられチャイコフスキー一家とともにロシアからルーマニア王国向けて脱出する途中彼の子供を身篭った。チャイコフスキーブカレスト市街戦戦死しアンダーソン産んだ男の子孤児院預けられたという。しかし、ルーマニア王マリア後援して実施され調査ではブカレスト当時市街戦があったという記録無く、彼女の息子アレクシスへの洗礼についてもすべての神父探したが、その記録該当する人物見付からなかった。 1925年7月17日、かつてアナスタシアフランス語家庭教師務めたピエール・ジリヤールとその夫人アンダーソン入院する病院訪れたが、そばの人に皇帝の子供達の元乳母でもある夫人のアレクサンドラ・テグレヴァ(通称シュラ)が誰なのか聞かれアンダーソンは「父の一番下の妹です」と答え、同じ時期訪問することが伝えられていたアナスタシア叔母オリガ・アレクサンドロヴナ勘違いしていた。それから3ヵ月後に2人は再び見舞ったが、アンダーソンが手にオーデコロン振り掛けるのを見てシュラ夫人アナスタシアがよく同じよう真似をしていたのを思い出した。ジリヤールが過去、特にシベリアでのことについて色々聞き出そうとして大し成果得られなかったが、翌日帰り際にはシュラ夫人愛しさと懐かしさのあまり、目に涙を浮かべていたという。ジリヤールはアンダーソン皇帝一家の生活の細部について知っていることはすべてが発表されている回顧録類い読んだり、写真見て知ったことに過ぎないとして彼女を「俗悪な女山師」「一級品女優」と評した第一次世界大戦中1916年当時ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒアレクサンドラの兄)が単独講和話し合うためにアレクサンドロフスキー宮殿訪れたという情報アンダーソンによって初め公に暴露された。敵国同士であったためにこの情報極秘とされており、大公本人訪問したことを否定したルートヴィヒアンダーソンを「あの女ペテン師だ」「狂人だ」「恥知らずの女」と徹底的に罵り探偵雇って調査させて1927年3月にはアンダーソンなる女性は実はポーランド生まれ農民出身工場労働者フランツィスカ・シャンツコフスカ(アンダーソン登場する直前失踪)であることを突き止めた。ところが、対面したシャンツコフスカの2人の兄と2人の姉が最終的に彼女を自分達の妹として認めることを拒否した片方の兄と姉は最初は彼女が妹であることを認めていた)。ルートヴィヒ戦時中ロシア訪問について、アンダーソン支持する証言30年近く経過した後から次々寄せられたが、その中の一つ戦時中ヘッセン大公訪問したという情報入手しているという亡命者これまで7人も出会ったという、アンダーソン関係者から情報入手している可能性少なからずあったことを示唆するものでもあった。 また、ツァールスコエ・セロー離宮敷地内にある民間病院にかつて負傷兵として入院していたフェリックス・ダッセルは1927年に、マリアアナスタシアしか知り得ないような病院に関する誤った質問いくつかぶつけたが、アンダーソンはこれを見事にクリアした。ダッセルマリアアナスタシア毎日病院訪れ時にはアレクセイ連れ立って来たと言った時にはアンダーソンはこれを姉妹1週間に2回か3回か行けず、アレクセイ連れて行ったことは一度も無いと正しく指摘したまた、知り合いロシア人老大佐について話した時、アンダーソン懐かしい声で「ポケット手を入れていた男」と言った。これはダッセルもすっかり忘れていたが、「ポケットの男」というのがアナスタシアがこの無作法老大に付けあだ名であったダッセルは「ここで突然、彼女を確認した間違い無い」と述べている。1958年5月23日法廷供述で、クライスト男爵夫人偶然にアンダーソン対面する何年前にダッセル男爵家訪れてツァールスコエ・セロー病院での話をしていたことを証言したアナスタシア幼少時からアレクサンドロフスキー宮殿長期間滞在して彼女をよく知っていたリリー・デーンは40年空白があったにも関わらず1957年1週間毎日数時間ずつアンダーソン会い宮中些細な出来事についても詳しく知っていたことに驚き、声や話し方アナスタシアそのものであると感じ本物だと確信したことを正式に確認している。ニコライ2世のいとこのアンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公アンダーソンアナスタシア認めていたが、オリガ・アレクサンドロヴナ亡くなる直前に彼から「自分騙されていたようだアンダーソン夫人本当にアナスタシアなのかどうか確信持てなくなった」と打ち明けられたと述べている。 アナスタシアとして認知してもらい、一家遺産相続するためにアンダーソン支持者長年続けた法廷闘争1970年2月17日終焉迎えた西ドイツ最高裁判所アナスタシアであることを証明するのに十分な証拠提供していないということ訴え退けた。この裁判明確な決着付けず、独自の判断も示さなかった。アンナ・アンダーソンの事件20世紀通してドイツの法廷における最長記録を持つ訴訟事件となったアンダーソン1984年2月12日肺炎亡くなり火葬にされた。死後10年経過した1994年に彼女が生前手術した際に摘出した腸の一部組織標本使用してDNA鑑定実施された。ところが、専門家ミトコンドリアDNA比較した結果アレクサンドラの一番上の姉ヴィクトリアの孫、エディンバラ公フィリップ王配のものとは遺伝的な繋がり認められなかった。一方で、フランツィスカ・シャンツコフスカの甥とはミトコンドリアDNA一致したことが明らかにされた。一部アンダーソン支持者は彼女が大公女では無かった証明するこの鑑定結果素直に受け入れた

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