アンナ・アンダーソン
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アンナ・アンダーソン | |
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1922年
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生誕 | 1896年12月16日![]() ![]() |
死没 | 1984年2月12日(87歳)![]() |
職業 | 無職 |
配偶者 | ジャック・マナハン(1919年 - 1990年5月22日)[1] |

アンナ・アンダーソン(Anna Anderson、1896年12月16日 - 1984年2月12日)は、ロシア皇女アナスタシアを自称したアメリカ人女性。王族偽装者の一人である。
生涯
1920年にドイツのベルリンで、記憶喪失の自殺未遂者として精神病院に収容されたアンダーソンは、自分はロシアから処刑を逃れ脱走してきたアナスタシアであると周囲に説いた。というより、最初に周囲が勝手にアナスタシアではないかと騒ぎ、やがて記憶を失っていた本人も「アナスタシアだったことを思い出した」のであり、意図的な詐称というより、一種の虚偽記憶(もしくは嘘を繰り返しているうちに、自分自身が真実と信じ込んでしまった)と思われる。彼女には、赤の他人を説得する天性の才能があり、耳の形や足の異常形態などアナスタシアと酷似する身体的特徴もあった。さらに、旧皇室に関わった者しか知り得なかった子細な事柄についての知識があったことから、ロマノフ家に連なる旧ロシア貴族の一部を含む、多くの支持者を得た。
ついには、1920年代にドイツでロシア帝室の莫大な遺産をめぐる訴訟を起こすが、ロシア語が話せない、苦手であったはずのドイツ語を話す、記憶が肝心なところであやふやになる、顔が明らかに違うなど多くの疑問点が生じた(但しこれらの疑問点にも反論の余地があるとされている)。訴訟は長期化し、最終的には真偽の確定が不可能として却下された。ロシア帝室生存者も一部を除いてアンダーソンを拒否し、アナスタシア本人をとりわけよく知る祖母マリア・フョードロヴナ皇太后も決して会おうとはしなかった。しかし、ロシア帝室主治医エフゲニー・ボトキンの息子でアナスタシアの遊び相手であったグレブ・ボトキンやその姉のタチアナ・ボトキナなど、根強い支持者も多かった。
その後、支持者の援助で1968年にアメリカ合衆国に定住、アメリカ人ジャック・マナハン(Jack Manahan)と結婚してノースカロライナ州に居住、最後まで自分はアナスタシアであると主張し続けた。この結婚はアンダーソンにアメリカ市民権を取らせるためのものであり、アナスタシアの信奉者のひとりであった裕福な夫は、自分は将来ロシア皇帝になる男であるとことあるごとに吹聴し続けた[注 1]。発見されて以来1984年に死去するまでアンダーソンは生涯一度も職業を得ず、支持者からの援助金で暮らした。晩年は奇行が目立ち数十匹の猫を放し飼いにしたため、しばしば町から追放されそうになった。
アナスタシアを名乗る偽者は、1920-30年代に少なくとも30人が確認されているが、その中でこれほどの支持を集めたのは、アンダーソン一人だけで、彼女の類稀なる才能のおかげといえる。1920年代にはヨーロッパ社交界の華となり、ハリウッドで2度も映画化され、少なくとも3本のTVドキュメンタリーが作られ、ニクソン大統領の就任式にも呼ばれた。これほど彼女が成功した間接的な理由は、ロマノフ一族全員の殺害命令を下したレーニンが、ニコライ2世一家処刑後に、「ニコライ2世は処刑されたが、家族は安全な場所にいる」という嘘の公式発表をしたことや、ソヴィエト政権がアナスタシアを含むロマノフ一族を処刑した事実を、ソ連崩壊まで隠蔽し続けたことによる。
正体
アンダーソンは1984年に死去したが、1989年にアナスタシアの弟であるアレクセイ皇太子と、第3皇女マリア以外のニコライ2世一家と推定される5人の遺骨がロシアで発見された。ミトコンドリアDNA鑑定の結果、これらの遺骨は確かにロマノフ家の一員の物であることが確認された。
アンダーソンの死後10年を経た1994年に、イギリスのFSS(Forensic Science Service)が彼女の小腸標本からのミトコンドリアDNA鑑定を行った。これはアレクサンドラ皇后の姉がイギリス女王エリザベス2世の夫君エジンバラ公の母方の祖母にあたることから、エジンバラ公・ロマノフ家の一員であることが確認されている皇女・アンダーソンの三者のミトコンドリアDNAを較べるという、かつてない科学的な検証だった。その結果、エジンバラ公と遺骨のDNAは確かに一致したが、アンダーソンのDNAはこのどちらとも一致しなかった。
その代わりにフランツィスカ・シャンツコフスカの甥のカール・マウハーとはDNAが一致した。アンダーソンの正体はポーランド人農家の娘フランツィスカ・シャンツコフスカ(Franziska Schanzkowska、1896年12月16日生 - 1920年3月失踪)である可能性が少なくとも99.7%である、と学術誌『ネイチャージェネティクス(Nature Genetics)』に発表された[2]。
出稼ぎ労働者としてベルリンの爆弾工場で働いていたフランツィスカは、手榴弾を誤って落とした事故で重傷を負い(その際、同僚は爆死)、精神不安定となって、アナスタシアとして現れる数週間前に消息不明となっている。事実、フランツィスカとアンダーソンの写真は酷似しており、1927年にアンダーソンを認めていなかった元ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒが私立探偵に調べさせて、アンダーソンがフランツィスカであると発表していた。さらに1930年代に彼女の兄弟がアンダーソンと面会した際(この面会は、ヒトラードイツ総統府の催促で実現した)兄弟は自分たちの姉妹であると認めている(しかし、その後兄弟は「姉の新しい“仕事”を邪魔してはいけない」と前言を撤回)。アンダーソンはこの爆発による体中の傷を、銃殺処刑をかろうじて逃れた証拠と主張していた。
しかしアナスタシアを信奉する信者の活動は、アメリカ人作家ピーター・カース(Peter Kurth)を始め根強く、アメリカではいまだにほぼ毎年アンダーソン関連の著作が出版されている。小腸の標本が本人のものではない可能性を示唆する論者も存在する[3]。
なお、山田風太郎は「人間臨終図巻」で、アナスタシアと称する女性が「偽物であったらともかく、本物であったとしたら、そして『私は私である』ということを世界中の誰も認めないとしたら……これほど悩ましい悲劇はちょっとあるまい」と述べている。
関連作品
ノンフィクションとセミノンフィクション
- ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)『アナスタシア 消えた皇女』(角川書店、1998年)
- 柘植久慶『皇女アナスタシアの真実 』(小学館、1998年)、『傭兵見聞録』(集英社 、1991年)
- 桐生操『皇女アナスタシアは生きていたか』(新人物往来社、1991年)
- Peter Kurth 『Anastasia: The Riddle of Anna Anderson』(Back Bay Books、1985年)
フィクション
小説
映画
- 『追想』(原題:Anastasia、1956年)
テレビ
- 『アナスタシア/光・ゆらめいて』(原題:Anastasia: The Mystery of Anna、1986年)
漫画
- 『ゴルゴ13』 第262話「すべて人民のもの」
コンピュータゲーム
- 『アサシン クリード クロニクル ロシア』(ユービーアイソフト、2016年)[注 2]
脚注
注釈
出典
- ^ Tucker, William O., Jr. (5 July 2007), “Jack & Anna: Remembering the czar of Charlottesville eccentrics”, The Hook (Charlottesville, Virginia: Better Publications LLC) 2009年7月3日閲覧。
- ^ “Establishing the identity of Anna Anderson Manahan” (英語). Nature Genetics. 2014年2月1日閲覧。
- ^ 山口敏太郎「アナスタシアの悲劇」『不思議大陸アトランティア 発動編』1号、力石幸一編、徳間書店〈TOWN MOOK〉、2009年、104頁。ISBN 978-4-19-710208-2。
関連項目
- ティッチボーン事件 - 19世紀の英国で起こった類似する騒動
アンナ・アンダーソン
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「アナスタシア・ニコラエヴナ」の記事における「アンナ・アンダーソン」の解説
詳細は「アンナ・アンダーソン」を参照 僭称者の中で最も知られているアンナ・アンダーソンは1920年2月18日にドイツ国のベルリンで自殺しようとしていたところを発見された。以下は当時取り調べた警察が残した公式記録である。 「 1920年2月18日、ベルリン。身元不明の娘による自殺未遂事件。昨日、午後9時、20歳前後の娘が自殺の意思を持って、ベントラー橋からラントヴェール運河(英語版)に飛び込んだ。娘は巡査部長に助け上げられ、ルツォウ通りのエリーザベト病院に収容された。所持品の中には身分証明書や貴重品に関する物は皆無で、娘は自分の身元についても、自殺未遂の動機についても口を閉ざして語ろうとしない。 」 自殺未遂から2年後の1922年6月30日に、突然倒れてモルヒネを投与されたアンダーソンは保護してくれたクライスト男爵夫妻に自分がアナスタシアであると話した。エカテリンブルクの惨劇時に銃弾を受けて意識を失っていたところを、まだ生きていることに気付いた一家に同情的なアレクサンドル・チャイコフスキーという名の警護兵によって助けられ、チャイコフスキーの一家とともにロシアからルーマニア王国へ向けて脱出する途中に彼の子供を身篭った。チャイコフスキーはブカレストの市街戦で戦死し、アンダーソンが産んだ男の子は孤児院に預けられたという。しかし、ルーマニア王妃マリアが後援して実施された調査ではブカレストで当時市街戦があったという記録は無く、彼女の息子アレクシスへの洗礼についてもすべての神父を探したが、その記録に該当する人物は見付からなかった。 1925年7月17日、かつてアナスタシアのフランス語の家庭教師を務めたピエール・ジリヤールとその夫人がアンダーソンが入院する病院を訪れたが、そばの人に皇帝の子供達の元乳母でもある夫人のアレクサンドラ・テグレヴァ(通称シュラ)が誰なのか聞かれてアンダーソンは「父の一番下の妹です」と答え、同じ時期に訪問することが伝えられていたアナスタシアの叔母のオリガ・アレクサンドロヴナと勘違いしていた。それから3ヵ月後に2人は再び見舞ったが、アンダーソンが手にオーデコロンを振り掛けるのを見て、シュラ夫人はアナスタシアがよく同じような真似をしていたのを思い出した。ジリヤールが過去、特にシベリアでのことについて色々聞き出そうとして大して成果が得られなかったが、翌日の帰り際にはシュラ夫人は愛しさと懐かしさのあまり、目に涙を浮かべていたという。ジリヤールはアンダーソンが皇帝一家の生活の細部について知っていることはすべてが発表されている回顧録の類いを読んだり、写真で見て知ったことに過ぎないとして彼女を「俗悪な女山師」「一級品の女優」と評した。 第一次世界大戦中の1916年に当時のヘッセン大公のエルンスト・ルートヴィヒ(アレクサンドラの兄)が単独講和を話し合うためにアレクサンドロフスキー宮殿を訪れたという情報がアンダーソンによって初めて公に暴露された。敵国同士であったためにこの情報は極秘とされており、大公本人も訪問したことを否定した。ルートヴィヒはアンダーソンを「あの女はペテン師だ」「狂人だ」「恥知らずの女」と徹底的に罵り、探偵を雇って調査させて1927年3月にはアンダーソンなる女性は実はポーランド生まれの農民出身の工場労働者フランツィスカ・シャンツコフスカ(アンダーソンが登場する直前に失踪)であることを突き止めた。ところが、対面したシャンツコフスカの2人の兄と2人の姉が最終的に彼女を自分達の妹として認めることを拒否した(片方の兄と姉は最初は彼女が妹であることを認めていた)。ルートヴィヒの戦時中のロシア訪問について、アンダーソンを支持する証言が30年近く経過した後から次々に寄せられたが、その中の一つが戦時中のヘッセン大公が訪問したという情報を入手しているという亡命者にこれまで7人も出会ったという、アンダーソンが関係者から情報を入手している可能性が少なからずあったことを示唆するものでもあった。 また、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院にかつて負傷兵として入院していたフェリックス・ダッセルは1927年に、マリアとアナスタシアしか知り得ないような病院に関する誤った質問をいくつかぶつけたが、アンダーソンはこれを見事にクリアした。ダッセルがマリアとアナスタシアは毎日病院を訪れ、時にはアレクセイも連れ立って来たと言った時には、アンダーソンはこれを姉妹は1週間に2回か3回しか行けず、アレクセイを連れて行ったことは一度も無いと正しく指摘した。また、知り合いのロシア人老大佐について話した時、アンダーソンは懐かしい声で「ポケットに手を入れていた男」と言った。これはダッセルもすっかり忘れていたが、「ポケットの男」というのがアナスタシアがこの無作法の老大佐に付けたあだ名であった。ダッセルは「ここで突然、彼女を確認した。間違い無い」と述べている。1958年5月23日の法廷の供述で、クライスト男爵夫人が偶然にもアンダーソンと対面する何年も前にダッセルが男爵家を訪れてツァールスコエ・セローの病院での話をしていたことを証言した。 アナスタシアの幼少時からアレクサンドロフスキー宮殿に長期間滞在して彼女をよく知っていたリリー・デーンは40年の空白があったにも関わらず、1957年に1週間毎日数時間ずつアンダーソンと会い、宮中の些細な出来事についても詳しく知っていたことに驚き、声や話し方がアナスタシアそのものであると感じ、本物だと確信したことを正式に確認している。ニコライ2世のいとこのアンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公もアンダーソンをアナスタシアと認めていたが、オリガ・アレクサンドロヴナは亡くなる直前に彼から「自分は騙されていたようだ。アンダーソン夫人が本当にアナスタシアなのかどうか確信が持てなくなった」と打ち明けられたと述べている。 アナスタシアとして認知してもらい、一家の遺産を相続するためにアンダーソンの支持者が長年続けた法廷闘争は1970年2月17日に終焉を迎えた。西ドイツの最高裁判所はアナスタシアであることを証明するのに十分な証拠を提供していないということで訴えを退けた。この裁判に明確な決着を付けず、独自の判断も示さなかった。アンナ・アンダーソンの事件は20世紀を通してドイツの法廷における最長の記録を持つ訴訟事件となった。 アンダーソンは1984年2月12日に肺炎で亡くなり、火葬にされた。死後10年が経過した1994年に彼女が生前に手術した際に摘出した腸の一部組織の標本を使用してDNA鑑定が実施された。ところが、専門家がミトコンドリアDNAを比較した結果、アレクサンドラの一番上の姉ヴィクトリアの孫、エディンバラ公フィリップ王配のものとは遺伝的な繋がりが認められなかった。一方で、フランツィスカ・シャンツコフスカの甥とはミトコンドリアDNAが一致したことが明らかにされた。一部のアンダーソン支持者は彼女が大公女では無かったと証明するこの鑑定の結果を素直に受け入れた。
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