身元について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 23:21 UTC 版)
「タマム・シュッド事件」の記事における「身元について」の解説
遺体の身元の候補は、アデレードのタブロイド誌、「The Advertiser」が、1948年12月2日号の小さな記事において最初に報じた。記事は「浜辺で遺体発見」(英語: Body found on Beach)という題で以下のとおり報じている。 「ペイナム(英語版)・アーサー通りのE.C. ジョンソン (英語: E.C. Johnson) 氏、45歳頃と思われる遺体が昨朝、ソマートンの海岸の障害児施設の向かい側で発見された。遺体はソマートン・ホワイト通りのJ. ライオンズ氏 (英語: J. Lyons) により発見され、H.ストラングウェイ刑事 (英語: Detective H. Strangway) とJ. モス巡査 (英語: Constable J. Moss) が捜査に当たっている」 1948年12月3日にジョンソンが自ら歩いて警察に出頭し、生存を報告したため、遺体の身元候補からは除外された。同じ日に「The News」誌が第1面に遺体の写真を掲載したことで、一般から遺体の身元に関する情報提供が増加することとなった。12月4日の内に警察は男性の指紋について、南オーストラリア州警察にある指紋の記録には合致するものがなく、州外にも捜査を広げなければならなくなったと発表した。12月5日、「The Advertiser」誌は「警察が陸軍の記録をあたって、11月13日に、グレネルグのホテルで遺体によく似た男性と酒を飲んでいたと通報のあった男を探している」と報じた。その酒の席で、その謎の男は、"Solomonson" という名の入った軍の年金カードを提示していたという。 遺体の身元については、以下のとおり他にも多くの通報があった。 1949年1月初め、2人の人物が、遺体を63歳の元木こり、ロバート・ウォルシュ (英語: Robert Walsh) であると断定した。この2人以外にもう1人、ジェームズ・マック (英語: James Mack) も、当初は遺体が誰だか分らなかったが、その1時間後に警察へ連絡してやはり、ロバート・ウォルシュであると断定した。マックは、最初遺体を見た時に誰だか分らなかったのは、髪の毛の色が違っていたからだ、と証言した。ウォルシュは数か月前に羊を購入しにアデレードからクイーンズランドへ赴いていたが、予定通りクリスマスに戻って来なかったという。警察は、遺体と比べてウォルシュは年を取り過ぎていると考えて懐疑的であった。一方で警察は、遺体は木こりと同じ特徴を備えているが、手の状態はこの男性が少なくとも18カ月は木の伐採に従事していないことを示している、と述べている。遺体の身元特定に関する意見は次々に否定され、最初に遺体をウォルシュであると断定した人物の内の1人、エリザベス・トンプソン (英語: Elizabeth Thompson) も、遺体を2度目に見た際に、遺体にウォルシュにあるはずの傷がないことや脚の大きさから、別人であると考えるに至って証言を撤回した。 1949年2月初めには、遺体の身元として8件の候補があり、その中には、ダーウィンの住民2名からの、自分達の友人であるという証言や、行方不明の駅員、蒸気船の船員であるという証言、あるいは、あるスウェーデン人男性である、というものが含まれていた。 遺体は、当時寄港中であったSS Cycle号の乗組員、トミー・リード (英語: Tommy Reade) ではないかとも一時考えられたが、安置所で遺体を見た後に同僚達は彼ではないと断定した。 1953年11月には警察は、遺体の男性に会ったことがある、あるいは知っているという一般市民から寄せられた情報は251件に上ると発表した。しかし、「いくらか価値のある手掛かり」と警察が呼んだのは、男性が着用していた衣服に関するものに限られたままであった。
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