アンナ・アンダーソンとの繋がり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/19 09:53 UTC 版)
「タチアナ・ボトキナ」の記事における「アンナ・アンダーソンとの繋がり」の解説
1926年にアンナ・アンダーソンとドイツで初対面したボトキナはその時の模様を次のように語っている。 一目で彼女はアナスタシアだと確信したが、散歩をするうちにますますよく似ていると思うようになったという。 “ 彼女の顔を近くから見つめ、特にその青い、明るい眼をよく見た時、私は直ぐにアナスタシア・ニコラエヴナ皇女だと思いました。背の高さ、体付き、髪の色は正にアナスタシアそのものです。―彼女の眼、瞼、耳は全く同じです。 ” ボトキナはロマノフ家の話題に持って行き、マリアから贈られたアルバムを持ち出した。表紙にはアナスタシアとマリアが後援してきた第一次世界大戦の傷病兵のための病院の写真が貼ってあり、姉妹はこの病院を訪れた時に看護師をしていたボトキナによく会っていた。中には皇帝一家のもっと私的な写真も含まれており、アンダーソンは「これは一人で見させて」と言って隣の部屋へ行ってしまった。同行していたオステン・ザッケン男爵に促されて後を追ってみると、長椅子に腰を下ろして「感極まった様子で、涙をいっぱいにためて」アルバムを広げていた。アンダーソンが他に何枚かあるか聞いてきたので、ボトキナは皇帝一家の写真を更に何枚か持ってきた。 “ 写真に覆い被さるようにして、震えながら涙声で「お母様!お母様!」と呼んでいる様子を見たら、誰ももう決して彼女の素性を疑おうなどとは思わないでしょう。 ” ボトキナはこの後にアンダーソンが疲れ果て、夜遅くなってからベッドに寝かせて語り掛けた時の彼女の返答に驚きを隠せなかった。 “ 貴女が昔病気の時、私の父が貴女の服を脱がせてあげましたね。さあ、私もそうして差し上げましょう。すると彼女は「そうなの、はしかだったのよ」と答えたのです。彼女は私の事を完全に覚えているのだなと思いました。と言うのは皇帝の子供達がはしかにかかった時、これは勿論一度だけの事ですが、私の父は皇女達と一緒に付き添い、まるで看護師のように看病したものでした。こんな事は誰にも話していませんし、父を除いて、私だけが知っている事なのです。 ” アンダーソンには記憶障害があったと述べている。 “ 彼女の記憶にはどうやら障害があるようでした。それに眼にも。彼女が言うには、病気をしてから時計の読み方を忘れて、苦労して憶え直したそうです。今でもその練習は毎日続けなくてはならないと言うのです。また、いつも練習していないと、ほとんど何でも忘れてしまうとも言ってました。服を着るのも、洗濯をするのも、縫い物をするのも、いつでも自分に強制するみたいにしてやらなければならない。そうやって忘れないようにしていると言うのです。 ” ボトキナはアンダーソンをアナスタシアだとは信じようとしない人々に手紙を書き、力を貸してくれそうな人には残らず会ってみたが、誰からも力を得られそうにない事が直ぐに判明した。「その女性がアナスタシアだとしても―」。 弟のグレブとともに亡くなるまでアンダーソンを見捨てなかった数少ない一貫した支持者であり、その誠実さを疑われなかった生き証人でもあった。皇帝一家との友情など皇室に関する彼女の思い出についての回顧録を執筆した。
※この「アンナ・アンダーソンとの繋がり」の解説は、「タチアナ・ボトキナ」の解説の一部です。
「アンナ・アンダーソンとの繋がり」を含む「タチアナ・ボトキナ」の記事については、「タチアナ・ボトキナ」の概要を参照ください。
アンナ・アンダーソンとの繋がり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/29 08:45 UTC 版)
「グレブ・ボトキン」の記事における「アンナ・アンダーソンとの繋がり」の解説
1927年5月にドイツにあるゼーオン修道院でアンナ・アンダーソンと初めて会った。アンダーソンはボトキンが「おかしな動物も連れている」のかしきりに気にしていた。アナスタシアはボトキンが描く絵を好み、彼の絵から物語を創って一緒に遊んでいた。ボトキンはこの子供の頃に描いた絵だと直ぐに理解した。アンダーソンがドイツ語でしか話さないと聞かなかったために彼女とはドイツ語で話したが、彼女の付き添いとはロシア語で話し続けた。しかし、彼女はロシア語で話してもその内容を理解していたという。 1928年10月13日、息子ニコライ2世とその家族はロシアを逃れてどこかで無事に暮らしていると信じ続け、アナスタシアの祖母マリア皇太后は祖国デンマークで息を引き取った。アンダーソンが無言で沈み込んで誰とも話そうとしない状況が何日も続き、ボトキンもひどく心配していた。ところが、亡くなってから丸一日も経たぬうちにマリア皇太后の娘でニコライ2世の妹であるクセニア大公女とオリガ大公女、クセニアの夫アレクサンドル大公、クセニア夫婦の6人の子供、彼女らのいとこ2人の合わせて11名のロマノフ家の人間がニコライ2世一家全員が暗殺されたことを正式に認め、アンナ・アンダーソンを詐称者として非難する「コペンハーゲン声明」を発表した。このうちアンダーソンに会ったことがあるのはオリガ1人だけであった。ボトキンは声明に対抗してこの4日後にクセニアへ向けた長大な手紙を公開した。彼女がイングランド銀行に預けられているニコライ2世の4人の娘の持参金の相続権を狙っていると指摘した。 “ 母上が亡くなられてから丸一日も経たぬうちに・・・貴女は御自身の姪ごさんを騙して財産を奪おうとする陰謀をまた一歩進められた・・・。明らかに貴女は、貴女方があのような声明を発表することを皇太后陛下がお許しにならないことをよくご存知だった。だから貴女は、とにかく陛下が亡くなられるのを待って、あのようなものを公にされたのです。母上の死の床の傍らにあってさえ、貴女の一番の関心は姪ごさんの相続財産を搾取することだったのでしょう。そう思うと戦慄を覚えるばかりです。そして、世間一般の作法すら弁えず、母上の死からせめて二、三日のあいだ待つこともなく、貴女の下劣な闘いを公然と始められるとは、開いた口が塞がりません。・・・行っている罪悪に比べれば、ボリシェヴィキによる皇帝、その家族、私の父の殺害ですらまだマシに思えます。気の狂った酔っ払いの野蛮人の一団が犯す罪の方が、貴女の一族の一員―運に見放され、悩める、全く罪の無い若い娘―アナスタシアに対する冷静で、計画的な、とどまるところを知らない迫害よりもまだ理解しやすい。・・・ ” ボトキンはこの手紙で本物のアナスタシアだと裏付ける証拠も並べている。アンダーソンがアナスタシアの身の回りで起きた子供の頃のごく些細な出来事を記憶していること、生まれつきのアザを含めて彼女が身体的な相似点をすべて持っていること、彼女の現在の筆跡がアナスタシアの若い頃と同じものであること、アナスタシアを子供の頃から知っている誠実と認められている人々の多くが本人と認めていること、診察した医師の全員が、彼女が自分で名乗っている人物以外である可能性は科学的に見て不可能であるという点で全員が一致していることである。しかし、このおおっぴらにロマノフ家を困惑させようとするボトキンの試みはアンダーソンを支持する人々からもあまり賛意が得られなかった。 この後もロマノフ家の様々な生存者に対してアンダーソンを擁護するために手紙を送り、彼女やロマノフ家についての本を著した。そして、生涯を通じてアンダーソンへの経済的支援を続けた。他の支持者が彼女を捨てても、ボトキンは最後までアンダーソンの友人であった。 一方で、アンダーソンに次いで著名なアナスタシア詐称者となったユージニア・スミス(英語版)の主張には懐疑的だった。
※この「アンナ・アンダーソンとの繋がり」の解説は、「グレブ・ボトキン」の解説の一部です。
「アンナ・アンダーソンとの繋がり」を含む「グレブ・ボトキン」の記事については、「グレブ・ボトキン」の概要を参照ください。
- アンナ・アンダーソンとの繋がりのページへのリンク