アメリカ軍から見た特攻機の戦術
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「特別攻撃隊」の記事における「アメリカ軍から見た特攻機の戦術」の解説
アメリカ軍による特攻対策が進むと、特攻機もその対策として突入方法を工夫するようになった。アメリカ軍はそれを映像化しアメリカ軍兵士に注意を促している。 主に特攻機は急降下、緩降下、低空からの水平飛行で突入 味方航空機に紛れて接近するケース(丸で囲まれているのが特攻機) 急降下の場合、最高速で一気に突入するケース 雲に隠れながら目標に接近し、雲の合間から急降下して突入するケース 急降下後に目標が攻撃線上に入らなかった場合、一度水平飛行に戻して再度急降下して突入するケース 他の機が囮になって対空砲火を引きつけている間に急降下で突入するケース レーダー探知可能範囲外の超低空飛行で目標に接近するケース 島影などに隠れながらレーダーに探知されないように目標に接近するケース 夜間や悪天候など視界不良時に低空飛行で目標に接近しそのまま突入するケース 低空飛行で接近し目標の直前で上昇し急降下で重要箇所に突入するケース 特攻機の燃料搭載 「特攻では敵艦に突入するから搭乗員は全員即死と決めてかかって片道の燃料しか積んでいなかった」との主張があるが、これは沖縄戦における陸軍特別攻撃隊員の宿舎で『振武寮』と呼ばれた施設に対する、エンジントラブル等で引き返した隊員は懲罰的に監禁されていたとする認識 などに伴う誤解で、あたかも特攻隊員が一度出撃したら引き返すことができないような認識をされていることがあるが、海軍の最初の神風特攻隊「敷島隊」は、悪天候に悩まされ1944年10月22日の初出撃以降3回連続で帰還し、陸軍航空隊の「富嶽隊」も初回の出撃では5機中4機が帰還するなど、特攻最初期から会敵できずに帰還する特攻機が存在するのは認識されており、事実誤認である。 フィリピンで海軍航空隊最初の特攻隊を出撃させた第201航空隊の第311飛行隊長横山岳夫中尉は、部下隊員に「例えば100の燃料があるなら、50まで行って敵が見えんかったら帰って来い。」「仮に戻れない場合は、燃料が尽きる前に陸地に不時着しろ。」と帰還の指示までおこなってから出撃させている。その理由は「目標が見つからなければ、燃料が尽きて墜落するだけだから、出撃させる以上は無駄には死なせたくない。」といった至極当然の理由であったという。 陸軍の下志津教導飛行師団においては、特攻隊員の教本「と號空中勤務必携」により帰還する方法や心得まで定められていた。内容は「中途から還らねばならぬ時は 天候が悪くて自信がないか、目標が発見できない時等 落胆するな 犬死してはならぬ小さな感情は捨てろ 国体の護持をどうする 部隊長の訓示を思い出せそして 明朗に潔く還ってこい」「中途から還って着陸する時は 爆弾を捨てろ 予め指揮官から示された場所と方法で 飛行場を一周せよ 状況を確かめ乍らたまっていたら小便をしろ(垂れ流してよし) 風向は風速は 滑走路か、路外か、穴は 深呼吸三度」というもの。実戦でも、飛行第62戦隊が九州沖航空戦中の1945年3月18日に、新海希典戦隊長が率いる特攻改修機「と」号機3機で浜松基地から沖合150kmに発見した敵機動部隊に向けて特攻出撃したが、機動部隊を発見できず出撃機の内2機が帰還しているが(新海の戦果確認機は未帰還)、地上で迎えた部隊指揮官は「ご苦労。よく帰ってきた。急いで死ぬばかりが国のためではない。よく休みなさい」と帰還機搭乗員らの労をねぎらっている。 沖縄戦においては、沖縄の制空権を完全にアメリカ軍に握られていたので、索敵も早朝に出した索敵機の報告に頼らざるを得ず、特攻機が到着するころには報告された海域から移動しているケースが殆どであったため、日本軍は初めから特攻機を数機ずつに分けて、報告のあった海域を中心に扇状の飛行コースで飛ばして、敵と接触した隊だけ突入するという戦術にせざるを得なかった。これを索敵と攻撃を同時に行うことから「索敵攻撃」と呼称したが、敵と接触できないことの方が多く、4回~5回覚悟を決めなおして出撃を繰り返す者もいた。日本海軍航空隊のエース・パイロット角田和男少尉は、特攻機ではなく直掩機として20回に渡り特攻機と出撃したが、そのうち敵機動部隊と接触したのはたった2回であった。角田は「一生懸命探しているんですが、なかなか見つからないものなんです」と述べているように、実際は初めから多くの特攻機が帰還することを前提の出撃となっていた。 特攻隊員たちが憂いなく出発できるように、出撃機には可能な限りの整備がなされたとも言われるが、現実問題として日本の工業生産力はすでに限界に達しており、航空機の品質管理が十分ではなかった ことや、代替部品の欠乏による不完全な整備から、特攻機の機体不調による帰投はも珍しいことではなかった。例えば、1945年5月4日に陸軍航空隊は62機を出撃させたが、そのうち1/3がエンジン不調などで引き返しており、第6航空軍司令官の菅原は頭を悩ませている。 沖縄戦での特攻では、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、鹿屋からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦や戦闘機による戦闘空中哨戒(CAP)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向を変更するのが成功率を上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察や目標の位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃・撃墜され、特攻機自らが目標を索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえるために」必要とされた。レーダーを避けるための低空飛行(空気抵抗の関係で燃料の消費大となる)と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多くの燃料が積み込まれた。陸軍の一式戦は機体燃料タンクに加えて左翼下に燃料200L入りの統一型落下タンクを懸吊して出撃している。増槽内の燃料が減ってくると、右翼下には250kg爆弾が懸吊してあるため、爆弾の重量で機体が右に傾き操縦が困難になったという。 陸軍第六航空軍の青木喬参謀副長が「特攻隊に帰りの燃料は必要ない」と命令していた姿も目撃されているが その様な動きはむしろ例外で、陸軍第六航空軍の高級参謀は、戦後の米戦略爆撃調査団からの尋問で「特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる」と燃料による火災を特攻の大きな効果として認識しており、米戦略爆撃調査団による戦後の調査においても「命中時の効果を高める為、ガソリンが余分に積まれていた」ということが判明している。アメリカ軍も「特攻機は爆弾を積んでいなくてもその搭載燃料で強力な焼夷弾になる。」と、特攻機の燃料による火災を特攻の効果の一つとして挙げている。 特攻機が片道燃料しか搭載しなかったという誤った情報が広まった経緯について、知覧特攻平和会館の初代館長で、自らも振武隊員として特攻出撃した経験のある板津忠正は、「基地で丹念に機体を整備している整備員が、燃料がこれだけあれば十分だと言って満タンにせずに送り出せると思いますか?当時の整備員はできれば一緒に乗って行きたい心境でしたし」と、片道燃料で出撃させられたという事実を否定し、「戦場に着き、特攻が成功すれば、片道燃料だけですむということが戦後、一人歩きして、帰りの燃料は積まなかったと思われるようになったのです。片道燃料という説は、大きな誤りです。」と指摘している。燃料積載量については、一般に大型爆弾懸吊の上、特に低高度航進の場合は空気抵抗により燃料の消費量が大となるため、機種の性能、爆弾重量、飛行場の地質、航続距離を勘案して決定されたのではないかと思われる。南方資源地帯からの石油の輸送が途絶し、日本国内では燃料不足に陥っていたが、こと特攻用の航空燃料については優先的に確保されており、終戦時点でも100万バレルのストックがあった。戦後のアメリカ軍の調査によれば、1945年7~8月の日本軍の航空燃料使用量実績で換算すると、100万バレルはおよそ7か月分の備蓄量で20万機の特攻機を一度に出撃させられる量であり、特攻機の燃料を節約する必要はなかった。
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