アメリカ軍から見た特攻機の戦術とは? わかりやすく解説

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アメリカ軍から見た特攻機の戦術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:16 UTC 版)

特別攻撃隊」の記事における「アメリカ軍から見た特攻機の戦術」の解説

アメリカ軍による特攻対策が進むと、特攻機もその対策として突入方法工夫するようになったアメリカ軍はそれを映像化アメリカ軍兵士注意促している。 主に特攻機急降下、緩降下低空からの水平飛行突入 味方航空機紛れて接近するケース丸で囲まれているのが特攻機急降下場合最高速一気突入するケース 隠れながら目標接近し合間から急降下して突入するケース 急降下後に目標攻撃線上に入らなかった場合一度水平飛行戻して再度急降下して突入するケース 他の機が囮になって対空砲火引きつけている間に急降下突入するケース レーダー探知可能範囲外の超低空飛行目標接近するケース 島影などに隠れながらレーダー探知されないよう目標接近するケース 夜間悪天候など視界不良時低空飛行目標接近しそのまま突入するケース 低空飛行接近し目標直前上昇し急降下で重要箇所突入するケース 特攻機燃料搭載特攻では敵艦突入するから搭乗員全員即死決めてかかって片道燃料しか積んでいなかった」との主張があるが、これは沖縄戦における陸軍特別攻撃隊員の宿舎で『振武寮』と呼ばれた施設対する、エンジントラブル等で引き返した隊員懲罰的監禁されていたとする認識 などに伴う誤解で、あたかも特攻隊員一度出撃したら引き返すことができないような認識をされていることがあるが、海軍最初神風特攻隊敷島隊」は、悪天候悩まされ1944年10月22日初出撃以降3回連続帰還し陸軍航空隊の「富嶽隊」も初回出撃では5機中4機が帰還するなど、特攻最初期から会敵できずに帰還する特攻機存在するのは認識されており、事実誤認である。 フィリピン海軍航空隊最初の特攻隊を出撃させた第201航空隊の第311飛行隊長横山岳中尉は、部下隊員に「例え100燃料があるなら、50まで行って敵が見えんかった帰って来い。」「仮に戻れない場合は、燃料尽き前に陸地不時着しろ。」と帰還指示までおこなってから出撃させている。その理由は「目標が見つからなければ燃料尽きて墜落するだけだから、出撃させる以上は無駄に死なせたくない。」といった至極当然理由であったという。 陸軍下志津教導飛行師団においては特攻隊員教本「と號空中勤務必携」により帰還する方法心得まで定められていた。内容は「中途から還らねばならぬ時は 天候悪くて自信がないか、目標発見できない時等 落胆する犬死してはならぬ小さな感情捨てろ 国体護持どうする 部隊長訓示思い出せそして 明朗潔く還ってこい」「中途から還って着陸する時は 爆弾捨てろ 予め指揮官から示された場所と方法飛行場一周せよ 状況確かめ乍らたまっていたら小便をしろ(垂れ流してよし) 風向風速滑走路か、路外か、穴は 深呼吸三度」というもの。実戦でも、飛行第62戦隊九州沖航空戦中の1945年3月18日に、新海希典戦隊長率い特攻改修「と」号機3機で浜松基地から沖合150kmに発見した敵機部隊向けて特攻出撃したが、機動部隊発見できず出撃機の内2機が帰還しているが(新海戦果確認機は未帰還)、地上迎えた部隊指揮官は「ご苦労。よく帰ってきた急いでぬばかりが国のためではない。よく休みなさい」と帰還搭乗員らの労をねぎらっている。 沖縄戦においては沖縄制空権を完全にアメリカ軍握られていたので、索敵早朝出した索敵機の報告に頼らざるを得ず特攻機到着するころには報告され海域から移動しているケースが殆どであったため、日本軍初めから特攻機を数機ずつに分けて報告のあった海域中心に扇状飛行コース飛ばして、敵と接触した隊だけ突入するという戦術にせざるを得なかった。これを索敵攻撃同時に行うことから「索敵攻撃」と呼称したが、敵と接触できないことの方が多く、4回~5回覚悟決めなおして出撃繰り返す者もいた。日本海軍航空隊エース・パイロット角田和男少尉は、特攻機ではなく直掩機として20回に渡り特攻機出撃したが、そのうち敵機部隊接触したのはたった2回であった角田は「一生懸命探しているんですが、なかなか見つからないものなんです」と述べているように、実際初めから多く特攻機帰還することを前提出撃となっていた。 特攻隊員たちが憂いなく出発できるように、出撃機に可能な限り整備なされたとも言われるが、現実問題として日本工業生産力はすでに限界達しており、航空機品質管理が十分ではなかった ことや、代替部品欠乏による不完全な整備から、特攻機機体不調による帰投はも珍しいことではなかった。例えば、1945年5月4日陸軍航空隊62機を出撃させたが、そのうち1/3がエンジン不調などで引き返しており、第6航空軍司令官菅原頭を悩ませている。 沖縄戦での特攻では、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、鹿屋からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦戦闘機による戦闘空中哨戒(CAP)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向変更するのが成功率上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察目標位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃撃墜され特攻機自らが目標索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえるために」必要とされた。レーダー避けるための低空飛行空気抵抗の関係で燃料消費大となる)と爆弾積載のために、満タン燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多く燃料積み込まれた。陸軍一式戦機体燃料タンク加えて左翼下に燃料200L入り統一落下タンク懸吊して出撃している。増槽内の燃料減ってくると、右翼下には250kg爆弾懸吊してあるため、爆弾重量機体が右に傾き操縦困難になったという。 陸軍第六航空軍青木喬参謀副長が「特攻隊帰り燃料必要ない」と命令していた姿も目撃されているが その様動きはむしろ例外で、陸軍第六航空軍の高級参謀は、戦後の米戦略爆撃調査団からの尋問で「特攻通常攻撃より効果大きい、その理由爆弾衝撃飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発火災が起こる」と燃料による火災特攻大きな効果として認識しており、米戦略爆撃調査団による戦後の調査においても「命中時の効果高める為、ガソリン余分に積まれていた」ということ判明している。アメリカ軍も「特攻機爆弾積んでいなくてもその搭載燃料強力な焼夷弾になる。」と、特攻機燃料による火災特攻効果一つとして挙げている。 特攻機片道燃料しか搭載しなかったという誤った情報広まった経緯について、知覧特攻平和会館初代館長で、自らも振武隊員として特攻出撃した経験のある板津忠正は、「基地丹念に機体整備している整備員が、燃料これだけあれば十分だと言って満タンにせずに送り出せると思いますか?当時整備員できれば一緒に乗って行きたい心境でしたし」と、片道燃料出撃させられという事実を否定し、「戦場着き特攻成功すれば片道燃料だけですむということ戦後一人歩きして帰り燃料は積まなかったと思われるようになったのです。片道燃料という説は、大きな誤りです。」と指摘している。燃料積載量については、一般に大型爆弾懸吊の上、特に低高度航進場合空気抵抗により燃料消費量が大となるため、機種性能爆弾重量飛行場地質航続距離勘案して決定されたのではないか思われる南方資源地帯からの石油輸送途絶し日本国内では燃料不足に陥っていたが、こと特攻用の航空燃料については優先的に確保されており、終戦時点でも100万バレルストックがあった。戦後アメリカ軍調査によれば1945年7~8月日本軍航空燃料使用実績換算すると、100万バレルはおよそ7か月分の備蓄量で20万機特攻機一度出撃させられる量であり、特攻機燃料節約する要はなかった。

※この「アメリカ軍から見た特攻機の戦術」の解説は、「特別攻撃隊」の解説の一部です。
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