1958年の衆院選で初当選
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「安倍晋太郎」の記事における「1958年の衆院選で初当選」の解説
1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に、郷里の旧山口1区(定数4) から自民党公認を得て立候補。安倍が出馬したことにより、地元の旧日置村では、父の安倍寛の地盤を継いだ周東英雄を推す主流派と、安倍派に分裂したが、2位で初当選する(この時の総選挙では竹下登、金丸信が初当選しており、新人時代からの盟友関係が後の「安竹同盟」まで繋がった)。 1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙では落選。支持母体流動化など選挙区の情勢から政界への復帰が危ぶまれていたが、2回連続落選しては復活の目途が立たなくなるため、義父である岸信介元首相および叔父である佐藤栄作首相二人から異例の仲介が為され、同選挙区選出議員で地盤も重なる、吉田茂直系の周東英雄の後援会長を務めていた山口県水産業会の重鎮、藤本万次郎を後援会長に迎えた。 1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で衆議院議員に返り咲く。これが周東が政界引退する遠因となった。以降、安倍は死去するまで連続当選を続け、地盤は次男の安倍晋三へと引き継がれた。 選挙区後援会の集会に於いては、「藤本万次郎さんは私にとってかけがえのない恩人であります」との一節を必ず演説に盛り込み、「郷土に恩を返す為にも、日本の舵取りを目指す所存であります」と締めるのが常であった。本籍地が熊毛郡田布施町の岸と対岸の熊毛郡上関町祝島出身の藤本は、共に幼少時は「熊毛の神童」とうたわれ交流があったが、長じて二歳年上の岸に藤本が畏敬の念を持つ事となり、この交誼が期せずも岸の娘婿となった安倍の将来に関わることとなった。岸、佐藤、安倍はこの功績に報いるため、1968年(昭和43年)の第8回参議院議員通常選挙では、藤本に山口選挙区から自由民主党公認で出馬を要請したが、藤本は辞退した。 1969年(昭和44年)の総選挙は、周東の後継者として元通産省職員の林義郎が立候補。林の父親で、サンデン交通社長の林佳介は安倍の後援会長を、母親も安倍の婦人部の会長を務めていた。しかし林義郎が出馬したことから林家傘下の山口合同ガスなど下関市の有力企業のほとんどは林の支援に早変わりした。苦戦を強いられるもトップで当選を果たす。 下関市では「異端者」であった安倍は幅広い層からの支持や支援を必要とした。そこで同市に多い在日コリアン系の人々がその一翼を担うこととなった。山口県在日本朝鮮人商工会会長などを務めた朝鮮総聯系の呂成根、パチンコ業界大手の七洋物産創業者の吉本章治などからの支援を受けた。安倍の第六高等学校時代の親しい同級生に、釜山日報、KBSなどの社長を務めた崔世卿がおり、安倍は在日コリアンに対する偏見はなかったと言われている。 参議院山口県選挙区は、勇退予定であった二木謙吾が参議院議員を引き続き務めることとなり、1974年(昭和49年)も再出馬。1980年(昭和55年)の第12回参議院議員通常選挙では、安倍が推し藤本万次郎が後援会長を務める江島淳に地盤を禅譲する事となったが、1987年(昭和62年)二期目途中の江島の死去により、7月12日補選で二木の子息である二木秀夫に地盤は戻り、1998年(平成10年)の第18回参議院議員通常選挙では二木の地盤は後継者合志栄一へ引き継がれるも落選、無所属の松岡満寿男が当選する。2004年(平成16年)の第20回参議院議員通常選挙では、安倍の実子で岸家へ養子へ入った岸信夫が当選した。この議席には、岸信夫の衆議院鞍替えによる2013年(平成25年)の参議院山口県選挙区補欠選挙で江島淳の子息である元下関市市長の江島潔が就くこととなった。 自民党では、岸派とそれを継承した福田派に所属し、派閥領袖であった福田赳夫を支え、田中派との党内抗争「角福戦争」を争った。安倍は岸の全面的支援を背景として、福田派における世代交代の旗手と位置づけられていった。 行政面では、自民党農林・外交・国防各部会の副部会長、農林政務次官を務めるなど、農政を得意としながら外交などでも研鑽を積む。衆議院大蔵委員長を経て1974年(昭和49年)、三木武夫内閣において農林大臣として初入閣。以後、1976年(昭和51年)に自民党国会対策委員長を務め、1977年(昭和52年)、福田改造内閣の内閣官房長官となり、日中平和友好条約締結などに関与。1978年(昭和53年)には福田の自民党総裁再選への流れを作るためには衆議院解散が有効と考えた安倍は「解散風」を煽るが、金丸信防衛庁長官が解散反対を公言する などして解散は頓挫。同年暮れの総裁選で福田は大平正芳に敗れ、福田内閣は退陣する。 1979年(昭和54年)から1981年(昭和56年)まで大平総裁の下で政調会長を務めるが、福田派が大平と対立する中で、それぞれ籍をおく執行部と福田派の板ばさみになる。ハプニング解散の際には、政調会長と党執行部の一員でありながら内閣不信任決議採決直前に福田派議員によって議場から連れ出される一幕もあった。 政調会長退任直後に鈴木善幸内閣で通商産業大臣に就任。この時期までに内閣・党の要職を次々と歴任し、総裁候補としての地歩を固めたが、当時の派閥会長であった福田が政局の節目で再登板に意欲を示したため派閥の継承は遅れる形になった。安倍は派内の若手から支持を得ていたものの、長老たちを掌握しきれていなかったのである。 1982年(昭和57年)、鈴木善幸の首相退陣表明後、田中派の支援する総裁候補中曽根康弘に対抗すべく、福田は安倍の総裁選出馬への支持を表明。総裁予備選開催に必要な4人の立候補者を出した上で河本敏夫を総理総裁とする反田中派政権を樹立する目論見であったが、安倍への党員の支持が伸び悩み、泡沫候補と思われていた中川一郎にも脅かされ最下位に転落する可能性も見えた。岸は最悪の場合、安倍の将来に関わると考え、立候補取りやめを要求したが容れられなかった。 同年11月24日、総裁選予備選が行われる。結果は1位中曽根、2位河本、3位安倍、4位中川。中曽根が過半数を大きく上回る得票で1位につけたため、河本以下の候補は本選挙を辞退し、ここに福田派の目論見も潰えた。 詳細は「1982年自由民主党総裁選挙」を参照
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