1958年の衆院選で初当選とは? わかりやすく解説

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1958年の衆院選で初当選

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 05:02 UTC 版)

安倍晋太郎」の記事における「1958年の衆院選で初当選」の解説

1958年昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に、郷里の旧山口1区定数4) から自民党公認得て立候補安倍出馬したことにより、地元旧日では、父の安倍寛地盤継いだ周東英雄推す主流派と、安倍派分裂したが、2位初当選する(この時の総選挙では竹下登金丸信初当選しており、新人時代からの盟友関係が後の「安竹同盟」まで繋がった)。 1963年昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙では落選支持母体流動化など選挙区情勢から政界への復帰危ぶまれていたが、2回連続落選して復活目途が立たなくなるため、義父である岸信介元首相および叔父である佐藤栄作首相二人から異例仲介為され、同選挙区選出議員地盤重なる、吉田茂直系周東英雄後援会長を務めていた山口県水産業会の重鎮藤本万次郎後援会長に迎えた1967年昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙衆議院議員返り咲く。これが周東が政界引退する遠因となった以降安倍死去するまで連続当選続け地盤次男安倍晋三へと引き継がれた。 選挙区後援会集会に於いては、「藤本万次郎さんは私にとってかけがえのない恩人であります」との一節を必ず演説盛り込み、「郷土恩を返す為にも、日本舵取り目指す所存であります」と締めるのが常であった本籍地熊毛郡田布施町の岸と対岸熊毛郡上関町祝島出身藤本は、共に幼少時は「熊毛の神童」とうたわれ交流があったが、長じて二歳年上の岸に藤本畏敬の念を持つ事となり、この交誼期せずも岸の娘婿となった安倍将来関わることとなった。岸、佐藤安倍はこの功績報いるため、1968年昭和43年)の第8回参議院議員通常選挙では、藤本山口選挙区から自由民主党公認出馬要請したが、藤本辞退した1969年昭和44年)の総選挙は、周東の後継者として元通産省職員林義郎立候補林の父親で、サンデン交通社長林佳介安倍後援会長を、母親安倍婦人部の会長務めていた。しかし林義郎出馬したことから林家傘下山口合同ガスなど下関市の有力企業のほとんどは支援早変わりした。苦戦を強いられるトップ当選を果たす。 下関市では「異端者であった安倍幅広い層からの支持支援を必要とした。そこで同市に多い在日コリアン系の人々がその一翼を担うこととなった山口県在日本朝鮮人商工会会長などを務めた朝鮮総聯系の呂成根、パチンコ業界大手七洋物産創業者吉本章治などからの支援受けた安倍第六高等学校時代親し同級生に、釜山日報KBSなどの社長務めた崔世卿がおり、安倍在日コリアン対す偏見はなかったと言われている。 参議院山口県選挙区は、勇退予定であった二木謙吾参議院議員引き続き務めることとなり、1974年昭和49年)も再出馬。1980年昭和55年)の第12回参議院議員通常選挙では、安倍推し藤本万次郎後援会長を務め江島淳地盤禅譲する事となったが、1987年昭和62年二期目途中江島死去により、7月12日補選二木の子息である二木秀夫地盤戻り1998年平成10年)の第18回参議院議員通常選挙では二木地盤後継者合志栄一引き継がれる落選無所属松岡満寿男当選する2004年平成16年)の第20回参議院議員通常選挙では、安倍実子岸家養子入った岸信夫当選した。この議席には、岸信夫衆議院鞍替えによる2013年平成25年)の参議院山口県選挙区補欠選挙江島淳の子息である元下関市市長江島潔が就くこととなった自民党では、岸派とそれを継承した福田派所属し派閥領袖であった福田赳夫支え田中派との党内抗争角福戦争」を争った安倍は岸の全面的支援背景として、福田派における世代交代旗手位置づけられていった行政面では、自民党農林外交・国防各部会の副部会長農林政務次官務めるなど、農政を得意としながら外交などでも研鑽を積む衆議院大蔵委員長経て1974年昭和49年)、三木武夫内閣において農林大臣として初入閣以後1976年昭和51年)に自民党国会対策委員長務め1977年昭和52年)、福田改造内閣内閣官房長官となり、日中平和友好条約締結などに関与1978年昭和53年)には福田自民党総裁再選への流れ作るためには衆議院解散が有効と考えた安倍は「解散風」を煽るが、金丸信防衛庁長官解散反対公言する などして解散頓挫同年暮れ総裁選福田大平正芳敗れ福田内閣退陣する1979年昭和54年)から1981年昭和56年)まで大平総裁の下で政調会長務めるが、福田派大平対立する中で、それぞれ籍をおく執行部福田派板ばさみになる。ハプニング解散の際には、政調会長党執行部一員ありながら内閣不信任決議採決直前福田派議員によって議場から連れ出され一幕もあった。 政調会長退任直後鈴木善幸内閣通商産業大臣就任。この時期までに内閣・党の要職次々と歴任し総裁候補としての地歩を固めたが、当時派閥会長であった福田政局節目で再登板意欲示したため派閥継承は遅れる形になった安倍は派内の若手から支持得ていたものの、長老たち掌握しきれていなかったのである1982年昭和57年)、鈴木善幸首相退陣表明後、田中派支援する総裁候補中曽根康弘対抗すべく、福田安倍総裁選出馬への支持表明総裁予備選開催必要な4人の立候補者出した上で河本敏夫総理総裁とする反田中派政権樹立する目論見であったが、安倍への党員支持伸び悩み泡沫候補思われていた中川一郎にも脅かされ最下位転落する可能性見えた。岸は最悪場合安倍将来関わる考え立候補取りやめを要求したが容れられなかった。 同年11月24日総裁選予備選が行われる。結果は1位中曽根2位河本3位安倍、4位中川中曽根過半数大きく上回る得票で1位につけたため、河本以下の候補本選挙辞退し、ここに福田派目論見潰えた詳細は「1982年自由民主党総裁選挙」を参照

※この「1958年の衆院選で初当選」の解説は、「安倍晋太郎」の解説の一部です。
「1958年の衆院選で初当選」を含む「安倍晋太郎」の記事については、「安倍晋太郎」の概要を参照ください。

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