1958年の優勝と50得点
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「ボブ・ペティット」の記事における「1958年の優勝と50得点」の解説
迎えた1957-58シーズン、ファイナル初進出の余勢を駆ったホークスは当時のフランチャイズ記録となる41勝をあげ、2年連続でプレーオフ第1シードを獲得。24.6得点17.4リバウンドの成績を残したペティットは地元セントルイスで開催されたオールスターで28得点26リバウンドを記録し、2度目のオールスターMVPに輝いている。プレーオフではデビジョン決勝でデトロイト・ピストンズを破ってファイナルに進出。2年連続でボストン・セルティックスとの頂上決戦が実現した。第3戦でセルティックスの大黒柱、ビル・ラッセルが負傷したことで、シリーズを優位に進めたホークスは、3勝2敗と王手を掛けた状況でセントルイスに帰還。ホームで迎えた第6戦で、ペティットは一世一代のパフォーマンスを見せる。ペティットは前半だけで19得点をあげると、セルティックスの反撃に遭った第4Qにはペティットの得点力が爆発。ペティットの放つシュートがセルティックスのダブルチーム、トリプルチームをものともせずに次々と決まり、ホークスの最後の21得点のうち18得点をあげた。108-107とホークスの1点リードで迎えた第4Q残り16秒にはリムに弾かれたスレーター・マーティンのミスショットを、ペティットがティップショットでねじ込み、試合の勝敗を決定付けた。110-109で勝利したホークスが初優勝を遂げ、この日ペティットが積み上げた50得点は当時のプレーオフ記録となった。この優勝は2010年現在に至るまでホークスの唯一の優勝となっている。またセルティックスは翌シーズンから未曾有のファイナル8連覇を果たすが、つまりホークスの優勝はセルティックスのファイナル10連覇を阻止した貴重な勝利となった。 1958年の優勝以後もホークスはウエスタン・デビジョンの強豪として、そしてペティットはリーグを代表する選手として君臨し続ける。1958-59シーズンには平均29.2得点16.4リバウンド(通算2,105得点)をあげて2度目の得点王、シーズンMVP、3度目のオールスターMVPに輝き、平均29.2得点は当時の歴代トップとなった。1960-61シーズンには平均27.9得点20.3リバウンドを記録し、史上5人しかいない平均20得点20リバウンド以上を達成した選手の一人となった。ホークスもマコーレー、マーティンら引退の後はクライド・ラブレット、レニー・ウィルケンズらが新戦力として加わり、1960-61シーズンには51勝をあげ、1960年、1961年にはファイナル進出を果たしているが、いずれもセルティックスの前に敗れ、優勝はならなかった。故障者の続出で試練の年となった1961-62シーズンにペティットはキャリアハイとなる平均31.1得点を記録しており、またシーズン終盤の6試合を選手兼ヘッドコーチとしてチームを率いて4勝2敗の成績を残したが、ペティットの奮闘も空しく、このシーズンを29勝51敗と大きく負け越したホークスはプレーオフを逃している。翌1962-63シーズンにはハリー・ギャラティンが新ヘッドコーチに就任し、チームもプレーオフに復帰するも、ホークスとペティットが再びファイナルの舞台を踏むことはなかった。 ペティットは引退するその時までリーグトップクラスの選手であり続けた。ラストシーズンとなった1964-65シーズンは膝の故障に悩まされて50試合の出場に留まったものの、それでも平均22.5得点12.4リバウンドをあげ、11年連続となるオールスターに選ばれると共に、オールNBAチーム選考ではデビュー以来続けてきた1stチーム入りこそ逃すも、2ndチーム入りを果たし、さらにこのシーズンにリーグ史上初となるキャリア通算20,000得点を達成している。プレーオフ1回戦でボルティモア・ブレッツに敗れた後、32歳のペティットは11年間のNBAキャリアに幕を閉じた。キャリア通算20,880得点は当時歴代1位、通算12,849リバウンドは当時歴代2位の記録だった。
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