1945年-沈没
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「千振 (海防艦)」の記事における「1945年-沈没」の解説
1945年(昭和20年)1月4日、池田司令が指揮する第一海防隊(千振、第17号海防艦、第19号海防艦)は、サンジャックへ燃料満載の上進出待機するよう第五艦隊から命ぜられた日栄丸を護衛して、昭南を出港した。これは、後述の第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)が比島方面に出撃するための燃料であった。日栄丸には重油13,000トンが搭載され、便乗者205名を乗せていた。6日、船団は北緯04度30分 東経103度30分 / 北緯4.500度 東経103.500度 / 4.500; 103.500の地点で米潜べスゴ(USS Besugo, SS-321)に発見される。2215、べスゴは魚雷6本を発射。うち1本が日栄丸の左舷後部機関室に命中。火災が発生した日栄丸は5時間後に沈没した。海防艦3隻は日栄丸の生存者を救助した後、そのままサンジャックに向かった。10日、第一海防隊はサンジャックに到着した。今度は11日サンジャック到着予定の海軍徴用船神靖丸(栗林商船、2,800トン)を護衛するよう命じられた。 詳細は「グラティテュード作戦」を参照 この時、海軍の第38任務部隊(司令官:ジョン・S・マケイン・シニア中将)に属する高速空母部隊には、南シナ海に侵入し日本の艦船を攻撃する任務が与えられた。その主要な攻撃目標は、3日にカムラン湾への進出命令を受け(南西方面部隊電令作第2号)シンガポールで出撃準備中だった航空戦艦2隻(日向、伊勢)や第二水雷戦隊(司令官古村啓蔵少将)等で編成された第二遊撃部隊であった。カムラン湾に集結した第二遊撃部隊を叩くことを目標とする第38任務部隊の南シナ海侵入計画は、グラティテュード作戦(Operation “Gratitude”)と命名された。第38任務部隊は7日から8日にルソン海峡を突破し、南シナ海に侵入を開始した。しかし、第二遊撃部隊は1月7日にカムラン湾進出命令が取り消され(南西方面部隊電令作第7号)、主力はリンガ泊地に碇泊していたため発見できず、第38任務部隊はやむなく輸送船などを代わりに攻撃することにした。米軍機動部隊の作戦により、ヒ86船団(旗艦香椎、第101戦隊司令官渋谷紫郎少将)が壊滅的被害を受けている。 11日、2TM型戦時標準タンカーあやゆき丸(日本海運、2,854トン)、同弘進丸(日本油槽船、2,854トン)、逓信省平時標準B型貨物船東裕丸(岡田商船、4,532トン)他輸送船3隻からなるサタ05船団と護衛部隊がサンジャックを出撃したが、このうち第149号輸送艦は荒波で沈没する可能性があるため危険と判断したため船団から分離し、サンジャックに戻った。夕刻、B-24型爆撃機小数機がサンジャックを偵察した。 12日、サンジャックは第38任務部隊艦上機による空襲に見舞われたため、千振、第17号海防艦、第19号海防艦は対空戦闘を行ったが、正午過ぎには全滅した。僚艦の第17号海防艦は、空襲開始からまもなくTBF雷撃機アヴェンジャーから投下された魚雷2本が命中して轟沈した。第19号海防艦は、直撃弾1、航空魚雷1、至近弾多数を受け、午前11前には沈没した。千振では、0951に左舷後部、右舷後部に至近弾を受ける。1012には左舷二番砲応急弾薬庫付近に爆弾1発を被弾。幸い不発だったものの、上甲板に直径約70cmの破孔が開いた。対空戦闘を行いつつ、内火艇を派遣して僚艦の救助をおこなう。また戦闘中に第五艦隊旗艦足柄よりシンガポールに帰投するよう命令があり、片舷航行状態で出港準備をおこなっていたという。1120、千振の二番砲、機械室、士官浴室に爆弾1発ずつ被弾し、艦後部は大火災となり、上甲板付近まで沈下する。総員退去となり、12時30分頃に沈没した。千振では乗員86名(もしくは88名)が戦死し、4名が負傷した。第一海防隊3隻の乗組員は合計528名であったが、戦死者261名、生存者267名であったという。第一海防隊3隻は第38任務部隊の本来の目標であった第二遊撃部隊の中で唯一、グラティテュード作戦により失われた艦となった。護衛対象の神靖丸もまた沈没したほか、サンジャック在泊中の2TL型戦時標準タンカー明石丸(西大洋漁業、10,045トン)、特設運送船(給油船)球磨川丸(東洋海運、7,510トン)も撃沈された。 第149号輸送艦も被弾炎上するも、修理の後2月10日に除籍されて雑役船第2黒潮に改名。6月12日、第57号駆潜艇とともにアンダマン・ニコバル諸島へ向かう途中、英駆逐艦エスキモー(en:HMS Eskimo (F75))の魚雷が命中し爆発、その後沈没した。 1945年(昭和20年)3月10日、千振は帝国海防艦籍および御蔵型海防艦より除かれた。千振の艦名は海上自衛隊の掃海艇「ちぶり」に引き継がれた。
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1945年-沈没
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2隻に乗船した捕虜のうち、イギリス人とオランダ人のグループが伯剌西爾丸から江ノ浦丸に移されたが、のちにはほかの捕虜も全員江ノ浦丸に移されることとなった。その間にも捕虜の死亡は相次ぎ、1945年(昭和20年)1月1日から4日までの間に伯剌西爾丸で5名、江ノ浦丸で4名の捕虜が亡くなり、6日にも伯剌西爾丸乗船中の捕虜のうち10名が亡くなった。1月9日1100、高雄は第38任務部隊艦載機の空襲を受ける。この空襲で江ノ浦丸が1番船倉付近に爆弾が直撃するなどして大破し、少なくとも252名が死亡した。同船は12日の空襲で再度被弾し沈没した。残った捕虜は450名が伯剌西爾丸に収容され、残りは高雄に上陸した。14日、伯剌西爾丸は捕虜の他、袋詰めの貨物12袋、砂糖100袋を積み、めるぼるん丸(大阪商船、5,438トン)、大威丸、大郁丸(大阪商船、6,886トン)他輸送船3隻とともにタモ37船団を編成し、駆逐艦朝顔、海防艦屋代、第1号海防艦、第36号海防艦、第134号海防艦、第21号掃海艇の護衛で高雄を出港。16日、2TL型戦時標準タンカー大邦丸(飯野海運、10,045トン)が機関故障を起こした。同日、第130号海防艦が加入。17日0500、伯剌西爾丸は機関故障を起こす。さらに大邦丸と衝突事故を起こした大威丸を曳航したため、機関に過負荷がかかることになった。18日、復旧した大威丸、大邦丸が屋代、第36号海防艦と共に船団から分離。19日1900、船団は泗礁山泊地に到着する。伯剌西爾丸は同地で船団から分離し、機関の修理を受ける。22日0530、大邦丸以下の船団が泗礁山泊地に到着。船団はそのままタモ37B船団となり、修理を終えた伯剌西爾丸はこの船団に編入。船団は同日1400に出港。24日、馬路海に到着。25日に出港し、同日麗水に到着。26日に出港し、同日鎮海に到着。28日0500に出港し、29日0400に六連に到着した。門司で伯剌西爾丸から降ろされた捕虜は九州、朝鮮半島、満州に分散され、3か月以内に100名以上が獄死、一説には福岡県内の5つの捕虜収容所で500名以上 が獄死したとされた。 2月28日、伯剌西爾丸は陸軍兵士370名、砂糖3,000トンを搭載して、寿山丸(大連汽船、3,943トン)他輸送船2隻とともにタモ46船団を編成し、第60号駆潜艇の護衛で基隆を出港。同日、東犬島西南沖に仮泊。3月1日に出港し、同日馬祖山に到着。3日に出港し、4日に泗礁山泊地に到着。5日に出港し、9日に六連に到着した。 5月12日、神戸和田岬燈台沖2Km地点付近(北緯34度39分58秒 東経135度12分00秒 / 北緯34.666度 東経135.2度 / 34.666; 135.2)で触雷して沈没した。 同日、壱岐島沖で智利丸(山下汽船、5,860トン)も空爆で撃沈され、2隻の沈没を最後に日本に残った第一大福丸型貨物船は姿を消した。
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1945年 沈没
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「杵埼 (給糧艦)」の記事における「1945年 沈没」の解説
1945年2月26日、カタ604船団に加入して那覇へ向け鹿児島発。3月1日、久慈湾に仮泊。同日、久慈湾内でアメリカ艦上機の攻撃を受け、被爆し沈没した。 5月10日、杵埼は杵埼型運送艦から削除され、帝国特務艦籍から除かれた。
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