1945 硫黄島・沖縄
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「ペトロフ・ベイ (護衛空母)」の記事における「1945 硫黄島・沖縄」の解説
第77.3任務群に一時期属していたペトロフ・ベイは、1945年1月中旬に第77.4任務群に戻り、マニラに進撃中の上陸部隊を日本軍の攻撃から守る任務に就いた。1月29日から30日にかけては、サンナルシソ (サンバレス州)(英語版)とサンアントニオ (サンバレス州)(英語版)に対する上陸作戦の支援を行った。ルソン島の戦いの趨勢が見えたことにより、ペトロフ・ベイはフィリピン海域を離れてウルシー環礁に向かった。 次なる目標であった硫黄島は、日本を空襲するB-29を援護する戦闘機の基地と目されていた。ペトロフ・ベイは5日間の停泊の後、第52任務部隊中の第52.19任務群に加わってウルシーを出撃し、2月15日に硫黄島近海に到着した。戦艦、巡洋艦および駆逐艦が硫黄島に艦砲射撃を浴びせた後、第52任務部隊からの航空機が硫黄島の日本軍防御陣地や陸上施設に対して爆撃や機銃掃射を行った。上陸部隊を乗せた輸送船団は2月18日に到着し、翌2月19日、上陸作戦が開始され硫黄島の戦いの幕は機って落とされた。ペトロフ・ベイの航空機は、戦いを通じて上陸部隊に対する全般支援任務を行い、戦闘機の出撃回数は786回を数えた。3月7日に至り、占領した硫黄島の航空基地が使用可能となったので、ペトロフ・ベイは戦場から下がり、グアム経由でウルシーに帰投した。途中の3月10日、グアムにて第76混成飛行隊は第93混成飛行隊と交代した。 ウルシーに帰投したペトロフ・ベイであったが、間を置かず第52.1.2任務群に加わって3月21日に出撃。沖縄島上陸に先立って、第54任務部隊中の第54.1任務群によって行われた艦砲射撃の支援を行った。慶良間諸島占領後、ペトロフ・ベイは日本機の反撃を受けたが、正確で重厚な対空砲火によりこれを退けた。復活祭の日曜日である4月1日8時30分に開始された上陸作戦は微弱な抵抗を跳ね返して成功。ペトロフ・ベイの航空機はこれ以降、ほぼ連日にわたって対地攻撃、哨戒および特別任務を遂行していった。 4月13日、第52.1.2任務群は先島諸島に対する航空攻撃を命じられ、228マイル離れた地点から先制攻撃を仕掛けた。激しい対空砲火により2機を失ったがパイロットは無事であり、後刻救助された。空襲を終えた第52.1.2任務群は、4月16日に沖縄島南東方面の元の海域に戻った。ペトロフ・ベイの航空機は5月9日から26日までの期間も支援、空中哨戒および対潜哨戒を続けていった。戦いの期間中、ペトロフ・ベイの戦闘機は17機の日本機を撃墜したと判断された。5月26日、ペトロフ・ベイは戦場から離れてグアムに向かい、5月30日にアプラ港に帰投。第93混成飛行隊はここで降ろされ、代わりに第90混成飛行隊を乗せて真珠湾に向かった。6月19日、ペトロフ・ベイはサンペドロに到着し、オーバーホールのためターミナル島(英語版)の海軍基地に係留された。
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