韓国「独立戦争」史観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 13:50 UTC 版)
「朝鮮の歴史観」の記事における「韓国「独立戦争」史観」の解説
韓国では日本軍と独立戦争を戦い、日本軍に勝利し、自らの手で独立を勝ち取り、植民地解放を成し遂げたという主張がある。 李栄薫は、韓国の歴史教科書や研究書では、1920年代から満洲・中国で独立戦争が繰り広げられ、1944年に大韓民国臨時政府のある上海で光復軍(大韓民国臨時政府の軍事部門)として統合再編され、連合軍と合同して朝鮮への進撃を準備したところ、アメリカが原子爆弾を投下し、機会を逸したと惜しむ叙述で書かれており、例えば韓国の国定教科書(1985年版)には、「連合軍が日本に原爆を投下し、一九四五年八月一五日に日本が無条件降伏を行ったことから、光復軍は同年の九月に国内への進入を実行しようとの計画を実現できないまま光復の日を迎えてしまった」とあるが、実際は、満州・中国で日本軍と独自の戦闘を行ったのは、三・一運動後の1920年の1年限りであり、「すべてが過大評価であり、実態とはかけ離れた叙述」として以下の理由を挙げており、「我が民族が、アジアと太平洋のヘゲモニーをめぐって日本とアメリカが行った戦争のお陰で、アメリカによって解放されたというのは紛れもない事実」「我が民族は、アメリカが日本帝国主義を強制的に解体したはずみで解放されたのです。自分の力で解放されたのではありません。今日、韓国の若者たちは、こうしたことを言うと苦々しく思うかもしれませんが、この点を冷静に正面から見つめなければなりません」と述べている。主な要点を列記すると下記の通りとなる。 三・一運動後、金佐鎮将軍の北路軍政署と洪範図将軍の西路軍政署は合流して、鳳梧洞戦闘と青山里戦闘において戦果を挙げたが、その後日本軍の追撃を受け、沿海州のアレキセーフスクに退却したが、独立軍のヘゲモニーをめぐって内紛が勃発、ソ連軍が独立軍の武装解除を強要し、数百名が射殺される自由市惨変が発生、それ以後、ゲリラ・陣地戦関係なく、独自の戦線を形成することはなかった。 1930年代に中国共産党統制下の東北抗日聯軍と八路軍所属の朝鮮人の闘争が展開されるが、あくまで日本と中国の戦争の一環であり、例えば、金日成より上位の連隊長だった東北抗日聯軍の楊靖宇将軍は、瀋陽の歴史博物館に楊靖宇の抗日闘争の絵画が展示してあるが、そこに朝鮮出身という文字はない。 アメリカ・ソ連・中国など連合国のいかなる政府も大韓民国臨時政府を承認せず、独自の軍事活動を認めず、大韓民国臨時政府の信任は国際的承認を受けるほど高くなく、独立運動は理念・路線をめぐってやたらと分裂していた。 大韓民国臨時政府を支援した中国国民党は、将来日本から解放される朝鮮における自らの損得勘定を行い、1941年に「韓国光復軍行動準備」を大韓民国臨時政府に強いて、光復軍を中国軍の参謀総長統制下に置き、これに関して大韓民国臨時政府の趙素昻(朝鮮語版)外相は、駐華アメリカ大使に「中国が日本の降伏後に、再び韓国を中国の宗主権の下におこうとしているためかもしれない」という説明を行い、これらの立場は中国共産党もソ連も同じであり、将来日本から解放される朝鮮に、利害関係を持つ強国間の緊張関係が早期に形成され、解放前後にこれらの緊張関係に基づく国際秩序に率先的に参加或いは発言権を確保した朝鮮人政治勢力は存在せず、朝鮮はあくまでも日本の付属領であった。 松本厚治(在大韓民国日本国大使館参事官)は、韓国「独立戦争」史観は史実ではないと指摘している。 「(韓国の)教科書」は激烈な独立戦争が戦われたとしているが、(中略)当時の日本には朝鮮と戦争しているという認識はなく、駐屯兵力は(第二次大戦末期を除き)概ね二個師団を超えることはなかった。人口・単位面積あたりの警官の数も内地より少なかったが、治安に問題はなく、官吏や軍人、その家族も、くつろいだ気分で日々を送っていた。東トルキスタンやチベット、かつての北アイルランドやチェチェンなどとは、全然違う状況にあったのである。 — 松本厚治、韓国「反日主義」の起源、p119-p120 第一次大戦後のハンガリー、第二次大戦後のオーストリアのように、負けた大国(ハプスブルク帝国、第三帝国)に包摂されていた国民は、自分たちは侵略の犠牲者だとひたすら言いつのった。韓国も同じで、戦勝国側に「共犯」とみなされれば国をあやうくする。戦後の国際秩序のなかに居場所を見つけようとする国にとって、被害者の席にもぐり込み、日本非難にまわる以外に選択の余地はなかった。むろん、それは容易なことではない。連合国に向かって、われわれは貴国とともに敵国日本と戦ったと、胸を張って言える立場にないことはわかっている。(中略)戦ったことはたしかだが、この国の人々は「日本と」ではなく、「日本とともに」戦ったのである。 — 松本厚治、韓国「反日主義」の起源、p522 中兼和津次は、韓国の歴史教科書は「日帝の侵略を糾弾し、条約の廃棄を求める運動が燎原の火のように広がり‥民衆の憤怒と抵抗を結集し、…民族の生存権を死守しようとする救国闘争が力強く展開されていった」「日帝は世界史で類例を見いだせないほど徹底した悪辣な方法で、わが民族を抑圧、収奪した」などと記述しているが、アメリカの研究者は「(韓国は)日本にはほとんど抵抗せず、戦争に協力した人が多数いたという事実は、日本植民地支配に対して全民族的抵抗を行ってきたという神話から、逸脱するものであり、今でも、特に韓国ではこうした歴史の現実を直視しようとする人はほとんどいない(マーク・ピーティー)」、「かつて欧米の植民地だった国で、当時の朝鮮なみの水準に達した国は今なお存在しないのではないか(プリンストン大学教授のコーリ)」と指摘しており、「日本の植民地時代、韓国経済が発展したというのは、ある程度事実。また、三・一事件をのぞくと、韓国人が組織的に日本当局に抵抗したということはなかったということも事実。だから『燎原の火』のように闘争が広がったというのは、どうも違うのではないか」「今書店にならんでいる『反日種族主義』には、『韓国の歴史教科書は全くでたらめ、歴史的事実を無視している』と書いている。よってピーティが『韓国では、歴史の現実を直視しようとする人はほとんどいない』と言っているように、歴史を直視しようとしない人がいるという点については、これを忘れてはならない」と述べており、松本厚治(在大韓民国日本国大使館参事官)が「世界の各地で起きた激烈な民族闘争とは、この国(韓国)は終始無縁だった。『無慈悲な弾圧』『激烈な抵抗』を語る既述の背後に透けて見えるのは、韓国近代の、深部における日本との癒着である。史観を支える史実が貧弱なために、レトリックに頼るしかないのである」と指摘していることを、「要するに、韓国で教える歴史とは、『こうあって欲しい、欲しかった』というある種の期待を込めたストーリーではないのか。これも松本氏の本からの抜粋だが、『教科書問題を解決するには歴史の科学性に傾斜しすぎてはならず、事実にこだわる頑なな態度を捨てなければならい』(尹世哲ソウル大教授)ということまで言っている。日本の歴史家に言わせれば、『よく言うよ』ということになるだろう。韓国精神文化研究院の朴教授は、『愛国心を呼び起こすことのできる歴史だけが本当の歴史なのである』。私にはこのような主張は、とても理解できない」と述べている。
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