近代・戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:37 UTC 版)
0px マニラで芸者と苦力が乗る日本の人力車(1898年) 在フィリピンマニラの日系フィリピン人(1920年) 日本のフィリピン移民(1930年代) フィリピンレイテ島占領中の日本軍(1945年) フィリピン、マニラ、大阪貿易会社(大阪バザール)のフィリピン日本人会社員(1930年代) フィリピン、マニラの大阪貿易会社(大阪バザール)の寮にいるフィリピン日本人会社員(1930年代) 大阪貿易会社(大阪バザール)のフィリピン日本人会社員がフィリピンの戦前のマニラで野球をする (1933年) マニラ(1942年)の日本人学校でのフィリピン日本人”法人”会議 自転車でマニラに進入する大日本帝国陸軍部隊(1942年) オートバイでマニラに進入する大日本帝国陸軍部隊(1942年) フィリピンマニラの日系人バザール。左上から時計回り: 東京バザール(1941年), 都ホテルと東京バザール(1941年),日本バザール(1941年),神戸バザール在小林ビル(1940年) フィリピンの日系人バザール。左上から時計回り: セブ市の日本バザール (1930-40年代),セブ市の大正バザール在YMCAビル (1930-40年代),ダバオ市の大阪バザールと柏原ホテル (1936年),マニラの大阪バザール (1934年) 明治時代から第二次世界大戦の敗戦まで、日本人が北海道、樺太、ハワイ、満洲、朝鮮半島、台湾、南アメリカ、北アメリカへと広く移住した時代は、日本が主権国家として国境を画定し、外国に触れ、富を外国に求め、戦争とともにあった。第二次世界大戦直後までの日本は出生率が高く、政府は人口増加に比べた耕地や雇用の不足を、海外移民により緩和しようと考えた。ただし移民本人や故郷に居る家族・親族にとって、第二次世界大戦以前は一時的な出稼ぎの要素が強く、「故郷に錦を飾る」ことを目標とする者が大半であった。このため特に移民一世では、国籍の離脱・変更をしなかった者も多かった。一時的な出稼ぎと移民を区別すべきという意見もあるが、おおむね海外移民の嚆矢とされるのは、ジョン万次郎などごく少数の漂流民を除けば、明治元年(1868年)に「元年者」と呼ばれるハワイへの移民153名が、オランダ系のアメリカ人商人、ユージン・ヴァン・リード 斡旋のもと、非合法(江戸幕府とイギリス人ブローカーの契約だったため、明治新政府から認められず、パスポート不所持のまま移民)ながら渡航したのが最初である。これとは別に、当時独立国であった琉球王国からの出稼ぎ移民も多数存在した。このため現在もハワイの日系団体は、本土系団体と沖縄県系団体は別個の組織として運営されている。その後政府公認として、1881年のハワイ国王カラカウアの来日を契機にした1885年のハワイ移民を皮切りに19世紀末以降本格化、第二次世界大戦後しばらくの間まで日本政府も積極的に関わって行われた。 ハワイ以外で移民が主に向かった先は、南北アメリカ大陸であった。1893年のグアテマラ移民をはじめとして、榎本武揚の提唱により1897年に35名がメキシコへ渡ってグアテマラ国境に近い南部のアカコヤグアに入植した「榎本移民」をきっかけにラテンアメリカへの組織的移住が始まった。移民先はアメリカ合衆国(特に西海岸カリフォルニア州とハワイ州)とブラジル(特にサンパウロ州とパラナ州)が圧倒的に多い。1908年、日本政府と合衆国政府の間で紳士協定が結ばれ、日本からの移民制限、ハワイから米国本土への移民禁止措置が行われ、事実上既に移民した者の親族以外の渡航が不可能となった(親戚でなくとも、移民との結婚を前提に、いわゆる「写真花嫁」などとして渡航した女性はいた)。さらに1924年、排日移民法が施行され、いかなる形の新規移民も認められなくなって以降、第二次世界大戦前には、先述のブラジルのほか、ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、チリへの移民も盛んに行われた。一時期はフィリピンへも移民が行われた。 第二次世界大戦前には、日本(旧:大日本帝国)が領有していた南樺太、朝鮮半島、台湾、南洋諸島へ渡った者も多いが、これは日本領地内の移動と考える事もできる。法的には外国であった満州国への移住も、南北アメリカ州への移住と様相が相違していたともいえるだろう。これらの地域からは、日本が敗戦した1945年から数年間の引き揚げによって民間・軍属合わせて600万人を超えるとも言われる日本人はほぼ一掃された。両親を失ったり、引き揚げの途中で家族とはぐれたりして一家離散を余儀なくされ、孤児となった一部の日本人年少者が現地人の家庭に引き取られ、現地人として養育された例もある(中国残留孤児も参照)。 だが、南洋諸島で居住していた日本人男性と現地人女性との間に生まれた子供は、そのまま米軍統治下に留まって米国籍を取る者が数多くいた。その後独立したパラオでは、クニオ・ナカムラなど日系人の政治家も多く、現在も日系人が大きな発言力を持っている。また数は少ないが、敗戦後にベトナムやインドネシアに留まり、これらの国籍を取得した残留日本兵もいる。 アメリカ州への移民は主に農業に従事する人が多かった。大規模農業プランテーションでの小作のほか、日本国と受け入れ先国との取り決めにより一定の土地を自由に開墾する権利を与えられたというケースがよく見られる。しかし多くの場合、その土地は現地の人が開墾に二の足を踏む様な劣悪な場所であり、また流通市場の確保等の面において様々な困難・差別を受ける事も多く、初期の移民は白人地主に搾取される事も多かったため、成功に至れずに潰えてしまった者、帰国した者も少なくない。 それらの悪環境の中にあっても、日本人の特質とも言えるきめの細やかな管理が重要となる養鶏や果実栽培等の分野を中心に徐々に成功する者も現れ、ブラジルでは大地主になる者も現れた。これらの成功者の功績等により、日系人は移民受け入れ国内でも一定の評価を得るに至り、"nikkei"(日系)と言う単語が認知される程になった所が多い。
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