組織的移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 06:02 UTC 版)
「ノルウェー系アメリカ人」の記事における「組織的移住」の解説
北米への組織的な移住は1825年に始まっており、ノルウェー人52名がクレンク・ピアソン指導の下、スループレストーレーション号に乗ってスタヴァンゲルから同地に向けて出航。これは就中、クエーカー及びハウゲ運動に対する宗教弾圧に端を発するものであり、「ノルウェーのメイフラワー号」とも呼ばれる所以である。また、その子孫は今尚「スルーパー」と呼ばれている ともあれレストーレーション号は一旦ニューヨークに上陸するも、収容限度を越えていたため拘留を余儀無くされる。ジョン・アダムズ大統領の介入を経て、一行はアンドレアス・ストランゲランの支援によりケンダルに移動、途中エリー運河の開通を目の当たりにした。 なお、こうした移民の多くはケンダル入植地からイリノイ州やウィスコンシン州に居を移す。クレンク・ピアソンはノルウェー系移民の代表格となったが、1865年にテキサス州クランフィルズ・ギャップ近くのノルウェー人入植地で死去。 この間、65名のノルウェー人がスウェーデンの港などを経由して移住した一方、1836年までノルウェーを出港した移民船は無かった。1837年には、移民団がティンからヨーテボリを経てフォックス川入植地(現在のイリノイ州シェリダン付近)に定住したとの文書が残されている。 50万名近くに上るノルウェー系移民の大多数は、カナダのケベック港を経由してアメリカ合衆国に到着。イギリス政府が1849年に航海法を廃止した事に伴い、翌年以降カナダも選択肢の1つとなったためである。 殆どの船は本来、ノルウェーの港からケベックへ直通していたが、やがては同地からキングストン・アポン・ハルのようなイギリス北海に面する港を目指す船が増えていった。移民はリバプールまで陸路で移動し、そこから船に乗り大西洋横断へと乗り出す事となる。 いずれにせよ、カナダを経由する路線は、アメリカ合衆国に直行するよりも多くの利点があった。鉄道にせよ蒸気船にせよ、100マイル以上(1600km)余分に移動してでも、9ドル弱の操舵料が節約出来たためである。ケベックを発った蒸気船はトロントへ到着し、その後鉄道でヒューロン湖沿岸部まで93マイル移動、そこから蒸気船でミシガン湖を縦断しシカゴやミルウォーキーなどへと散っていった。 20世紀初頭になって初めて、ノルウェー人はカナダを第2のチャンスの地として受け入れるようになる。これは農場や新たな経済的機会を求めてカナダへやって来た、多くのノルウェー系アメリカ人についても同様であった。1921年までには、カナダに居住する全ノルウェー人の3分の1がアメリカ合衆国生まれとする事からも分かるであろう。 アメリカ合衆国内に留まったノルウェー系移民も、凶作が相俟って手持ちの農業資源では人口増加に太刀打ち出来ず、ホームステッド法が肥沃な土地を約束していた事もあり、西進が流行。前述の通り、初期こそペンシルベニア州やイリノイ州に定住していたが、ウィスコンシン州やミネソタ州、ダコタ地域へと西進を重ねていった。 これとは別に、後にアメリカ合衆国へやって来たノルウェー系移民は、モルモン教への改宗が成った事もあり、ワシントンやオレゴン、ユタの各州に移動。1825年から1925年にかけては、80万人以上が北米へと移住している。ノルウェーの総人口の約3分の1がアメリカ合衆国、その他がカナダ自治領へ足を伸ばしており、アイスランドを除いて、ノルウェーよりもアメリカ合衆国の人口の割合が大きい国は存在しない。
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