舟運とたたら
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 07:36 UTC 版)
江の川は豊富な流量に比較的緩やかな勾配、中流域が中国山地を断ち切って流れる先行河川、上流域は三次盆地を中心に放射状に伸びる本流・支流、という特徴から、舟で日本海側から中国山地の広い範囲さらに陸路を組み合わせると瀬戸内海側へ行くことができたため、全流域で河川舟運が発達していた。近代初期まで中国山地の主要産業の一つにはたたら製鉄があり、舟運の中心は鉄・木材・穀類であった。 古代/中世 三次盆地内にある矢谷墳丘墓から、弥生時代後期には山陰(日本海側)と山陽(瀬戸内海側)の間で人々が交流していたと考えられている。舟運は古くから行われていたと言われている。ただ先史時代の遺跡や郡家などの位置から、古代まで舟運はごく狭い範囲であくまで陸上輸送の延長上で行われていたと推定されている。川舟が用いられたとする最古の記録は天慶8年(945年)のことで、邑南町菅原神社の由緒に残っている。 この流域でのたたら製鉄はその遺跡から、古墳時代6世紀後半から備後に、中世11世紀から16世紀ごろ石見・安芸に伝播したという。特に中世荘園が開発・発達していくと、中国山地側では鉄を租税として納めたことから、鉄生産が伸びていったとされている。そして中世後期には上流域と河口を結ぶ舟運が存在していたことが古記録でわかっており、江の川に面した山上、特に舟運の要地にいくつも城が構築されている。そうした城では戦国時代、吉田郡山城の戦いなどの戦いの舞台となった。 広島県立みよし風土記の丘に復元された古墳時代後期の製鉄遺跡。 岩脇古墳からの展望。木々の向こう側が江の川。 吉田郡山城からの展望。上部を流れるのが江の川。 近世 [全画面表示] 主な川港と周辺 [全画面表示] 美郷町粕淵。江戸期は天領で、江の川舟運と石見銀山街道(左上から右下方向)の交点にあたる。 一般に高瀬舟による舟運は江戸時代に発達したと言われているがこの流域では少し事情が異なる。まず上流域の安芸・備後は大部分が広島藩あるいはその支藩にあたる三次藩の領地、上下周辺のみ天領であった。舟運は津留規制によって広島藩(三次藩)領内に限られていた。一方、中下流域の石見には幕府直轄の大森銀山があったことから、江の川北側は天領であった。沿岸には銀山からの荷抜け・抜け売を取り締まる口番所(川舟番所)が数箇所置かれ、番所での通行は運上金を支払う必要があった。逆に江の川南側はほぼ浜田藩領で、他は河口にある川港であり西廻海運の港であった郷田(現・江津本町)のみ長らく天領、他津和野藩領の飛地があった。こうしたことから江戸時代では全流域にわたる舟運は途絶していた。 舟で穀類・銑鉄・鋼・苧・紙・楮・木材などが運ばれた。特に製鉄業においては、原料の砂鉄・精錬に用いる燃料の薪炭・生産された銑・鋼など、舟運が用いられた。更に銀山でも灰吹法による精錬が行われていたため大量の燃料を必要としたことから、舟運での薪炭運搬は銀山運営も支えていたことになる。なお精錬でできた銀地金は陸路(石見銀山街道)で運ばれたが、『マイペディア』には江の川は石見銀山の輸送路でもあったとの記載がある。これら特産品の生産・流通は流域経済を支え、特に江の川中下流域の石見国は農地開発できる平地が狭いため特産品の流通によって得た利益で外から米を買い人口を支えていた。 鉄穴流し・天秤鞴の発明、高殿たたらという企業的手法の導入によって、鉄生産量は更に増大した。ただ上流で行われた鉄穴流しは大量の土砂を下流に流した。中下流域に位置する邑南町の中心部は矢上盆地(於保知盆地)内にあるが、その中央を流れる川は鉄穴流しによる土砂流出で常に濁っていたことから濁川(江の川一次支流)と呼ばれるようになったという。鉄穴流しによる土砂被害を受けた下流側と加害者である上流側との間での住民訴訟「濁水紛争」は中国地方各地であり、この流域では本流や支流西城川などで起こっている。以下広島藩内での紛争例を示す。 寛永10年(1633年)、安芸国高田郡が可愛川(江の川)上流の山県郡での鉄穴流しの停止を求めたが、広島藩は収益を優先してこれを退け、かわりに浚渫を命じた。 天保4年(1833年)、安芸国恵蘇郡で比和川(江の川二次支流)上流での鉄穴流しの停止を求め、結果稲作に支障を与えないよう鉄穴流しの期間が取り決められた。 邑南町矢上盆地。周辺の山は鉄穴流しによって元の形を残していない。 庄原市比和川の支流にある三河内盆地。鉄穴流し跡を水田化したもの。 江の川河口西側にあたる都野津砂丘。中世までこの砂丘は存在せず海岸線はより内陸側にあったが、近世に鉄穴流しの排出土砂を用いて海岸部を埋め立て新田開発していった結果、現在の海岸線となった。 近代 Clip 三次本通。かつての三次中心部であり、この道は出雲街道/石見銀山街道。 明治時代に入り、舟運そしてたたら製鉄は最盛期を迎える。廃藩により津留規制が解かれ、舟は自由に行き来することができ上流から河口までつながることになる。鉄は幕末の動乱の中で需要が増え、その後も増え続け明治20年代頃に最盛期を迎えた。これは江の川流域だけでなく中国地方全体のことで、幕末から明治中期時点で日本の鉄生産量の90%を中国山地産の鉄が占めていた。 明治20年代、支流馬洗川・西城川・八戸川にあった船着場を含めると流域には49箇所の船着場があった。最上流は土師(現安芸高田市)にあり、荷物取扱高順では郷田川端(現江津市)・粕淵(現美郷町)・吉田浜(現安芸高田市)・三次五日市(現三次市)・川本今津(現川本町)などが多く取り扱っていた。江津から三次の間を下りは2日・上りは5日要し、上りは風があるときは帆を張ってないときは沿岸の船頭道からロープで舟を引いたという。かつて江の川中流域石見国側で生産された鉄製品は河口の郷田にのみ運ばれていたが、このころになると三次-吉田と江の川上流(可愛川)へ舟で運ばれ陸路あるいは太田川水運で広島にも運ばれていった。舟荷は江戸時代とほぼ同じ内容のものに加えて、銅も運ばれた。これは大森銀山は休山となったが、しばらくすると銅が産出されたため、これも河口まで運ばれていた。 ただ安価な洋鉄の輸入さらに製鉄の近代化によって、明治20年代後半からたたら製鉄は斜陽化していった。 明治後期には浜原と江津を結ぶ定期船が登場、大正期には江川飛行船が登場した。これは後ろにプロペラを付けた船で、江津-粕淵の間を1日2往復していた。ただ舟運も大正10年(1921年)発電を目的とする鳴滝堰堤が建設されると、航路が分断されたことにより急速に衰退していった。更に同じ頃には道路網の整備が進み始め、川に沿って三江線整備が進み昭和12年(1937年)江津-浜原間が完成したことにより、舟運は完全に途絶えた。
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