舟運の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/30 16:17 UTC 版)
横利根閘門の建造は、利根川から横利根川への逆流による氾濫を防いだ点で、霞ヶ浦周辺の地域に恩恵を与えた。舟運にとっては、安全面などで効果があったものの、一方で、高水工事によって川の流れが変わったことや、堤防が造られ川辺の人々との関わりが薄れたことなど、不利にはたらく面もあった。 加えて、周辺の交通も変化がみられてきた。閘門建設前まで、佐原以東に道路橋は全く無かったが、1930年(昭和5年)の神宮橋をはじめとして、北利根橋(1932年)、水郷大橋(1936年)が開通して陸上交通が進展し、それに伴いバスやトラックが進出するようになった。さらに1933年(昭和8年)には国鉄成田線が佐原駅から松岸駅まで延伸し、佐原-銚子間が鉄道で結ばれた。横利根閘門は完成後、1935年(昭和10年)頃までは定期船を含めて年間5万隻の船舶の航行があったが、その後舟運は衰退していった。
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