舟運業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 13:59 UTC 版)
干拓される前の千波湖では湖沼を南北に縦断する渡し船が営業していた。幕末期の千波湖では「新々道」とよばれる湖中を南北に縦断する道が、南側の始点を千波村の逆川河口のやや西側付近(=現在の千波大橋の南側たもとの交差点辺り)に、北側の終点を奈良屋町の「新道(柳堤)」たもと辺り(=現在の桜川1丁目辺り)にして設けられていた。この「新々道」は千波湖の水利の妨げになるから廃止して欲しいとの付近の農民からの申し出により1888年から1890年の間に廃止となった。この「新々道」廃止後、一個人の運営による渡し船が運航されたのだった。渡し船のルートは「新々道」とほぼ同じルートで、現在の千波大橋の少し東側であった。やがて、湖北側の台地地区が水戸の中心市街地として行政施設、学校や商店、住宅が建ち並び、対岸の緑岡村、吉田村の住民の交通需要が多くなって来ると、この渡し船は1906年に水戸市と緑岡村千波による官営に切り替わった。実際の運営は入札で落札した個人が契約金を行政に支払って行っていた。渡し船は1日に頻繁に運行されており対岸住民にとっては通勤・通学或いは農産物の行商等に使う重要な交通手段であった。1911年では1日に200人以上の客があり、その多くが鉄道会社への通勤者であった。運賃は1人平均1銭程度であった。1916年、新たな交通手段としてに渡し船の運行ルートとほぼ同じ場所に「美都里橋(又は水戸里橋。※2021年現在ある同名橋とは別物。)」が架橋されると渡し船の運航は廃止となった。渡し船の南側発着地があった近辺には現在、「舟付橋」という往時を思わせる名の橋が逆川に架かっている。
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