改修前の千波湖の姿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 13:59 UTC 版)
水戸藩により囲い込まれた千波湖の面積は現在の姿より約3倍ほど大きかった。かつて大きさについて記している史料には以下がある。 水戸下市の町年寄が残した町方文書である『水戸下市御用留』内の、宝暦11年(1761年)8月16日付け覚に、山口勘兵衛という幕府の巡見使が来水した際の案内において、千波湖の大きさは「横拾町、堅壱里」と答えよ、との指図が記録されている。これはおよそ、横1090メートル、縦3900メートルとなる。 『水府地理温古故録』(1786年(天明6年))では「長五里餘、横一里許、深さ平水六尺程。」と記録されている。これはおよそ、東西15700メートル、南北4000メーテル、水深1.8メートルとなる。 『水府志料』(1807年(文化4年)では「東西三十町余、南北六七町余あり」と記している。これはおよそ、東西約3273メートル、南北654ないし763メートルとなる。 1830年(天保元年)写の『水戸地図』(水府明徳会彰考館徳川博物館所蔵)では「長二十七町 広六町余」と書き込まれている。これはおよそ、東西2945メートル、南北654メートルとなる。 1885年刊の松平俊雄(松平雪江)の編・画による『常磐公園攬勝図誌』では「東西凡そ弐拾五町五十間南北六町余」と記されている。これはおよそ、東西2818メートル、南北654メートルとなる。 1890年刊の水戸市の古地図『水戸市街改正略図』(上掲外部リンク)には、"長二十五町五十間 巾五丁 周一里二十六町"と書き込まれている。これはおよそ、東西2818メートル、南北545メートル、周囲6736メートルとなる。 『水戸市史 上巻』では"幕末の調査によれば、上沼が196665坪、下沼が162624坪、内堀が27075坪となっている。"と記載している(但しその出典は掲示されていない)。これは上沼(千波湖西部)が650538平方メートル、下沼(千波湖東側)が537600平方メートル、内堀(新道の内側)が8190平方メートルとなる。 水戸の城下町の古地図である天保元年(1830年)写の『水戸地図』を現在の水戸市に重ね合わせて見ると、改修前の千波湖は北側は県道上水戸停車場千波公園線とJR常磐線を越え、北側台地の崖下まで水面が及んでいるのが見て取れる。北西部は偕楽園駅の際まで水が及んでいる。これは1842年に開園した偕楽園の直下にまで湖水が及んでいたことになり、当時は千波湖から舟で直接偕楽園へ入ることが出来ていた。水戸駅南側は国道51号を越えた柳堤水門の辺りを北東端に、南東端を備前堀に架かる銷魂橋、南を銷魂橋から水城高等学校を経てさくら通り文化センター入口交差点辺りまでを結んだ線を湖岸にして、現在は市街地となっている部分のほとんどが水面下にあった。そして現在湖南に広がる千波公園の芝生広場はほぼ全部が水面下にあった。 かような大きさであった改修前の千波湖には、以下のような現在は無くなったり別の姿になった光景があった。 江戸時代に観えた動植物の様相については「#江戸時代の動植物」を参照 備前堀の始点 現在も水戸の下市地区に残っている備前堀は千波湖の放水路として1610年(慶長15年)に着工された。現在の備前堀は桜川の柳堤水門前を始点としているが、往時は千波湖南東端を始点としていた。その位置は現在の備前堀に架かる銷魂橋辺りである。 新道(柳堤) "新道"は改修前の千波湖の北東湖中に作られた道である。千波湖北側の上町と湖東側の下町の往来を良くする目的で初代藩主頼房治世の1651年(慶安4年)に作られた。次の藩主光圀は炎天に新道を往来する人を思い、又、中国の西湖の蘇堤を模して道に柳を植えた。そして1690年(元禄3年)、新道に"柳堤"という名をつけた。5代藩主宗翰の宝暦年間(1751年~1764年)には楓数種が植えられた。 "新道(柳堤)"の姿については「#松平雪江の絵図」を参照 新道は奈良屋町片町(現在の宮町3丁目)を西の起点に、湖北東部の根積町(現在の柳町1丁目)へ達する長さ18町(約1963メートル)の道であった。道には3箇所切れ目が作られ各々東から一番橋(東ノ橋)、二番橋(中ノ橋)、三番橋(西ノ橋)が架けられた。道内には番所が3つ設けられ千波湖の取締を行っていた。新道で区分けされた湖の北部分は"内堀"と呼ばれた。 "内堀"については「#名称」を参照 木々が映える湖中の道は当時の千波湖にたいそう趣を加え、多くの者が憩いに訪れた。その風雅な景色は"千波湖八景"の一つ"柳堤夜雨"に選ばれている。この道の名残は今では、柳町1丁目の桜川に架かる橋、"柳堤橋(りゅうていばし)"の名に残るのみである。 明治時代、水戸城内と周辺の武家屋敷地区の一般人の通行が自由になった事から新道は使用される頻度は減った。1889年に水戸駅 - 小山駅間に開通した鉄道、水戸鉄道の線路は千波湖北岸に沿って敷設された。これによって新道への通行が遮られてしまい、新道は完全に使われなくなり、荒廃した。 奈良屋町の舟付場 奈良屋町には舟着場があり、ここから遊覧船や湖南岸へ向かう渡し舟が出ていた。 千波湖八景 徳川光圀が定めたとされる、かつての千波湖における8つの佳地である。 詳細は「#景勝地としての千波湖」を参照 七崎(千波七崎) 千波湖に突き出た崎(岬)7箇所を総じて"七崎(千波七崎)"と称した。紹介している史料によって以下のような相違がある。 千波湖の"七崎"『水府地理温古録』『水府志料』『常磐公園攬勝図誌』『便覧水戸市全図』神崎 ○ ○ 妙法崎 ○ ○ ○ ○ 柳崎 ○ ○ ※表記:柳か崎 ○ ※表記:栁か崎 ○ ※表記:柳ケ崎 駒入崎 ○ ○ ※こまいり ○ 駒込か崎 ○ いぼ崎/庵崎 ○ ※表記:いぼ崎 ○ ※表記:庵か崎 ○ ※表記:庵崎(いほさき) ○ ※表記:庵崎 筑能崎 ○ ○ ※つくの 藤か崎 ○ ○ ※表記:藤が崎 ○ ※「此辺藤崎址」と記す 梅戸崎 ○ ※表記:梅戸か崎 ○ ○ 三玉か崎 ○ ○ ※表記:三魂ケ崎 各崎の詳細は以下のとおり。 記事中の『常磐公園攬勝図誌』の絵図については「#松平雪江の絵図」を参照 神崎 千波湖北側、梅戸崎と妙法崎の間にあった。 妙法崎 神崎寺の南に在った。"神崎寺"は現在は水戸市天王町にある真言宗の寺院である。かつてこの崎には釈迦立像を収めた妙法教主殿という建物があったという。また、妙法崎の東には滝があったという 柳崎 千波湖の南西の隅で、東京街道(現在の国道6号)のすぐ東にあった。 駒入崎 湖北東の水戸城下の内堀に面した所にあった。『水府地理温古録』では"中御殿下か、御廏の辺かと云々"と、『常磐公園攬勝図誌』では"上市柵町の裏通りを云"と記されている。 駒込か崎 不明。 いぼ崎/庵崎 当時の逆川河口の西に在った出崎。その名の由来を『水府地理温古録』では、この地にはかってイボタノキがあったから、と記している。 筑能崎 場所について『水府地理温古録』では"吉田内阿佐ノ台の下辺に、つくのふという字の地あり、その川辺也"と、又、『常磐公園攬勝図誌』では、"吉田村安蘇の台の辺"と記されている。"筑能"は現在の水戸市元吉田町(旧吉田村)の小字に残り、その場所は茨城県立水戸南高等学校のすぐ北である。 藤か崎 偕楽園の下で、桜川の近くにあった。この崎には藤がはびこっていた、という。『便覧水戸市全図』ではその場所に「此辺藤崎址」と、かってはここに崎があった旨、記している。 梅戸崎 湖北側の舟着場のすぐ西の"梅香"にあった。"梅香"は現在の梅香1丁目辺りである。現在の千波大橋の市街よりの袂にある切り立った崖がこの崎の名残で、付近の"梅戸橋"はこの崎の名を残している。夕暮れに梅戸崎から西を見た時の残照と湖水の佳景は千波湖八景の一つ「梅戸夕照」として称えられている。 三玉か崎 湖南東端の竈神社境内に在った。『常磐公園攬勝図誌』は"七崎"の一つには挙げていないが、"三魂崎(三魂ヶ崎)"として"下市七軒町竈神社の境内にして・・・"と紹介文を記している。竈神社は現在も水戸市本町1丁目に今もある神社で、奥津彦命(おきつひこのみこと)、奥津姫命(おきつひめのみこと)、中御方命(なかみかたのみこと)を祀っており、かっては社名を三宝荒神と称していた。 以上が"七崎(千波七崎)"であるが、『水府地理温古録』では千波湖に在った他のいくつかの崎への記述が示されている。ひとつは光圀が"八崎"と呼んだ所への記述で、妙法崎、岩根崎、緑崎、雉崎、柳崎、阿佐野崎、小松崎、宮崎の8つを挙げている。又いまひとつ、"榎樹崎"と称した地もあったと記述している。 八沢(千波八沢) 千波湖に注いでいた沢8つを総じて、八沢(千波八沢)と称した。それは『常磐公園攬勝図誌』で"八澤(やさわ)"として挙げられている、鯉沢、木沢、茂沢(もさわ)、狐沢、拂沢(はらいさわ)、福沢、米沢、中沢である。この内、鯉沢の場所は"吉田村清岩寺の裏"と記述されている。鯉沢にあたる場所は2011年5月に"元吉田鯉沢緑地"(元吉田町642)の名称の都市公園となった。この緑地の東隣に"清巌寺"がある。 なお、『水府地理温古録』では前述"八澤"から福沢が抜けた、鯉沢、木沢、茂沢、狐沢、拂沢、米沢、中沢を"七澤"として記述している。 新々道 新々道は千波湖を南北に往来する目的で造られた湖中の道である。設置は文久年間(或いは安政年間)で、一旦の廃止と復活を経て1888年末から1890年の間に廃止された。新々道の北側の起点は奈良屋町の新道の西端辺りで、そこから南岸の逆川河口西へ、新道と直角になる形で伸びていた。現在の位置でいうと、千波大橋の辺りである。道途中には2箇所の橋があり舟の運航が可能となっていた。 "新々道"の姿については「#松平雪江の絵図」を参照 新々道は千波村に武家屋敷を新たに建てるに当りそこまでの交通路として設置された。起年については1863年(文久3年)8月に着工し1864年(文久4年)6月に通行とする史料(『大津忠順当用手控』(『茨城町史資料集 第1集』収載))、安政年中の斉昭治世中に築かれたとする史料(『千波湖渡船場関係書類』(『深作家文書』中の1文書。茨城県立歴史館所蔵))がある。その後、千波村の新武家屋敷建築が見合わされてしまったことから1867年(慶応3年)中に一旦は取崩しとなったが、1871年(明治4年)7月に通行が復活した。復活した新々道であるが、利用は近隣の農民に限られ荒廃していった。そして、湖水の流れを阻害しているとのことか千波湖普通水利組合(現在の「千波湖土地改良区」の前身)が撤去を要求し、結果、1888年末から1890年の間に廃止された。廃止後は渡し船が運航されるようになった。 千波湖普通水利組合(千波湖土地改良区)については「#利水」を、渡し船については「#舟運業」を参照
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