自警団による暴行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:40 UTC 版)
軍・警察の主導で関東地方に4,000もの自警団が組織され、集団暴行事件が発生した。横浜地区では刑務所から囚人が解放されていたため、自警団の活動に拍車がかかった。これら自警団の行動により、朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するためにシボレスが用いられ、国歌を歌わせたり、朝鮮語では語頭に濁音がこないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている。「白い服装だから朝鮮人だろう」という理由で、日本海軍の将校ですら疑われた。また福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、東京聾唖学校の生徒の約半数が生死がわからない状態になり、卒業生の一人は殺された。9月4日、埼玉県の本庄町(現本庄市)で、住民によって朝鮮人が殺害される事件が起きた(本庄事件)。同日、熊谷町(現熊谷市)、5日には妻沼町でも同様の事件が発生している。9月5日から6日にかけて、群馬県藤岡町(現藤岡市)では藤岡警察署に保護された砂利会社雇用の在日朝鮮人ら17人が、署内に乱入した自警団や群衆のリンチにより殺害されたことが、当時の死亡通知書・検視調書資料により確認できる(藤岡事件)。 横浜市の鶴見警察署長・大川常吉も保護下にある朝鮮人ら300人の奪取を防ぐために、1千人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升びんの水を飲み干したという。大川は朝鮮人らが働いていた工事の関係者と付き合いがあったとみられている。また軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府長官野間口兼雄の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」などのデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している。現在の千葉県船橋市丸山にあった丸山集落では、それ以前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結した。また朝鮮人を雇っていた埼玉県の町工場の経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った。 警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され、偶然居合わせた幼なじみの海軍士官に助けられたという逸話もある。当時早稲田大学在学中だったのちの大阪市長・中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中で群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」するほどの暴行を受けたという。歴史学者の山田昭次は、残虐な暴行があったとしている。 関東大震災後の体験記(事実上の証言)[誰?]を以下に引用する。 なお、以下の”◯◯“は資料の原文通りのものである。当時、「朝鮮人」とか「鮮人」、「不逞鮮人」などを伏字にしたものであると推測される。 (前略)「◯◯◯が隊を組んで押寄せているそうです。東京市内があんなに焼けるのも、◯◯◯が爆弾を投げたためだそうです。東京を焼払ったら隣町の町村にも押寄せて来るという報せがありましたので、お互いに力をママして、それに備えなければなりません。」と団長気取りの人が言う。「それは怪しからん、◯◯なんか何百人来たって何でもない。」と相槌を打つ者もある。「◯◯が押し寄せると言う事を誰が知らせたのです。」と会社員風の人が言うと、「今警察から言って来たのです。警察が触れ回っています。」と団長気取りの人が答える。「警察が言うんだから確かだろう。ぐずぐずしていると、どんな目に遭うかもしれない。」と竹槍の男が言う。(後略) (前略)僕は巡査に聞いた。「朝鮮人の押し寄せてくるというのは、ほんとうなのか。そして彼等は、何か体系的な行動を取っているのか。そうして何の目的を持っているのだ。」「ほんとうらしい。集団してくるかどうかは解らないが、今日藤棚の方で捕まった奴は『何々方面』などと書いた紙片を持っていた。中村町の(中略)労働者は、水のように見せかけて揮発油を缶に入れて持っていたというし(中略、この後も捕らえた多くの朝鮮人が不審に思われる様々な行動をとっていたということが述べられる)〜奴もあるそうだ。」「そういうんなら、連絡を取っての行動だね。」「ウム」 根強く秘められている情熱を持って、目的のためには平気で死ぬと聞いている朝鮮の民族精神を思うと、ありそうなことにも思われる。地図は一挙に塗替えられる。しかし民族精神まではなかなか塗替えられないのだ。ああ、今むくわれているのではないか。そして今後永遠にむくわれるのではないか。(後略) 以上述べた二つは、警官等のある程度社会的地位の高い人の話を鵜呑みにしたために、朝鮮人に対するあらぬ偏見を抱いた典型的な例であろう。この様な内容の証言は当時の資料に大変多く[要出典]見受けられる。 ただし、注目に値することは他にもある。それは、この当時にも、社会の流言に惑わされず朝鮮人虐殺に加わらなかったばかりか、周囲の人の反感を大いに買ってでも、自らの家に朝鮮人らをかくまい、虐殺から保護した人が一定数いたことである。[要出典] 例えば、家に押し寄せた暴徒に対して「うちにいる朝鮮人はそんな悪いことをする人間では絶対にない。それは私が保証する。私が全責任を持つから、どうかお引き取り願いたい」と言って朝鮮人を必死にかばう人や、同様に「彼(保護している朝鮮人のこと)は一日の震災当日以来一歩も外出はしないで謹慎している。決して暴行などする人ではない。万一左様なことがあるとせば責任は僕が引受ける。」と言った人、或いは警官が自ら朝鮮人暴動は流言であることを町内に知らせ回ったこともあったことが資料から分かる。こうした人は、自分で真実と流言とを正しく峻別し、不可解な噂には耳を貸さなかったという点で他の人と相違点をなすであろう。[要出典] 10月以降、暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった。福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった。自警団の解散が命じられるようになるのは11月のことである。
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