自警六則
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安政6年(1859年)5月 恩師・吉田松陰が江戸に護送される直前に、自らの志を立てた『自警六則』 明らかに苟偸(こうとう)の愧ずべきを見、審に節義の貴ぶべきを見よ。しかして苟温偸飽すること、日また一日ならば、ついに席蓐の上に老死し、寸義尺節あることなけん。これ粘滞に座し勇断乏しきのみ。 旦に夕を圖らず、日に月を謀らず、茫乎として向かう所を知るなきは、これ大いに慚(は)づべきこと也。 今我にして没するも なお一好人たるを失はず。然れども今これ生くる也。袖手高拱するは、ただ朋友・士夫の間に愧づべきのみならず、天地萬世、我はた如何せん。 吾が性軟弱、胸狭く膽小、深く看みるに為すあるに足らざる者。然れども自棄して以って為すに足らずとなして敢て為さざるは、即ち為すあるに足らざらんと意(おも)ふなり。 頃者(このごろ)、士大夫の挙止を観じ、大いに唾し、而してこれを罵れり。然れども我もまた因循に安んぜば、即ち他人より之れを観ば均しくこれのみ、亦すこぶる愧づべき也。 再延年、剣を按じて、霍光、功を遂げたり。張(張良)椎秤を華にし、晋氏、志を決す。我敢為に乏しく、常にその按剣椎秤の無きものを恨むのみ。 己未五月、暮、匆々として書す。
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