経歴・職歴
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1941年、長崎県生まれ。1960年、長崎県立長崎東高等学校卒業。1964年、長崎大学学芸学部卒業。田中希代子に師事し、ウィーン国立音楽大学に入学。同大学ではヴァルター・パンホーファーに師事し、1968年卒業。オーストリア国家ピアノ教授資格を取得した。1969年より福岡教育大学に勤務し、1969年助手、1972年講師、1976年助教授、1984年教授。後進の指導に取り組む一方で、自身もリサイタルやオーケストラとの共演など幅広く活動。1989年に文部省在外地研究員としてヨーロッパへ派遣され、かつてピアノを学んだウィーンでリサイタルを開催したほか、スロヴァキア放送交響楽団をはじめとした海外楽団による日本公演の際にはソリストとして共演した。また、地元長崎県の小学校校歌の作曲も担当した(南島原市立蒲河小学校・南島原市立見岳小学校)。1993年に第18回福岡市文化賞を受賞。 中村学園大学や平成音楽大学でも教鞭を執ったほか、全日本学生音楽コンクールピアノ部門など様々なコンクールで審査員・審査委員長を務めた。
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経歴・職歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/04 10:17 UTC 版)
和歌山県出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に入省。東京土木出張所に勤務し、利根川第二期改修工事に従事した。1927年、「煉瓦積ノ改善、特二其ノ補強二関スル研究」(『土木学会誌』)で工学博士号を得ている。 1918年(大正7年)から1921年(大正10年)までは、多摩川改修事務所に勤務。その後、1924年(大正13年)から1929年(昭和4年)まで、1年間の欧米諸国出張を挟んで、1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)までの2度にわたり、同事務所の所長を務めた。その間、1928年(昭和3年)には川崎河港工事を完成させたが、これは岸壁と水門の工事であり、岸壁は平時の荷揚げ、洪水時には多摩川からの避難所となるように設計された。水門は洪水を防ぐためのものであり、その建設資金は、金森の申し出を受けた味の素社により寄贈された。この金森が考奏した鉄筋煉瓦の水門、川崎河港水門は現存する構造物であり、その頭頂部の彫刻峠、金森と畏友の建築技術者との共同作品で、地元川崎市名産の梨や桃、そして葡萄が飾られている。金森はまたこのとき「川崎運河」構想を発案したが、その構想は紆余曲折の後、ついに実現しなかった。 金森はその後、1940年(昭和15年)開催予定のオリンピック東京大会の漕艇場問題で埼玉県戸田村を提案、同大会は中止となったが漕艇場計画は生き残り、後任の岩沢忠恭により「戸田ボートコース」として完成された。その後金森は、国道改良第一部長、荒川上流改修及下流維持工事事務所長、東京土木出張所工務部長に就任した。 1938年(昭和13年)、仙台土木出張所(後の国土交通省東北地方整備局)の所長に就任。八郎潟の干拓工事計画や、仙台塩釜総合開発計画を提案した。この仙台時代には地元の人々に慕われ、ことに青年層に人望あつく、市長にと請われることもあったという。1941年(昭和16年)には、一時期名取川改修・釜房堰堤工事事務所長に就任し、鉄道技師を兼任した。 同年、下関土木出張所長に転任。翌1942年(昭和17年)には内務省を退官し、その後、金森総合土木研究所を創設して所長となる。1945年(昭和20年)の終戦時には、三井土木建築総合研究所所長の職にあった。戦後は、利根川治水同盟や日本河川協会の副会長などをつとめた。
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経歴・職歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 22:44 UTC 版)
【学位】 1975年3月:早稲田大学商学部卒業。 1977年3月:早稲田大学修士(商学)修了。 2005年2月:早稲田大学博士(商学)修了。 【職 歴】 1981年4月:亜細亜大学経営学部助手。 1982年4月:亜細亜大学経営学部専任講師。 1985年4月:亜細亜大学経営学部助教授。 1993年4月:亜細亜大学経営学部教授。 2000年4月:亜細亜大学経営学部長就任。 2002年3月:亜細亜大学経営学部長退任。 2006年4月:亜細亜大学経営学部長就任。学校法人亜細亜学園理事就任。 2010年3月:亜細亜大学経営学部長退任。学校法人亜細亜学園理事退任。 2015年10月:亜細亜大学副学長就任。亜細亜大学短期大学副学長就任。学校法人亜細亜学園理事就任。 2017年3月:学校法人亜細亜学園評議員就任。 2018年9月:亜細亜大学副学長退任。 2018年10月:亜細亜大学学長就任。 2021年9月:亜細亜大学学長退任。 亜細亜大学の他に非常勤講師として、関東学院大学、青山学院大学、横浜市立大学、日本大学、埼玉大学、東洋大学、東京経済大学、東京女子大学、目白大学で勤務経験がある。
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経歴・職歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 06:27 UTC 版)
1954年 名古屋大学理学部卒業 1959年 名古屋大学大学院理学研究科博士課程終了 1959年 日本大学理工学部教員 1963年 東京大学教養学部教員 1978年 東京大学教養学部教授 1992年 東京大学名誉教授 1992年-2002年 日本福祉大学教授 2002年- 早稲田大学客員研究員、招聘研究員(宇宙物理学研究室) 2019年 死去。叙従四位、瑞宝小綬章追贈。
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