立地と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/15 01:16 UTC 版)
沖積低地の中、名取川と広瀬川の合流点の東約1.5キロメートルにある。周辺標高約3.5m。低地の中の自然堤防に、土塁と何重かの水濠をめぐらせて造られた。東西、南北おおよそ200メートルの範囲で、土塁に接して幅十数メートルの水をたたえた外堀をめぐらせ、別に内堀もあったと想定できるが、現在のところ堀と土塁位置を点々と短い線で押さえられる程度で、全体像は不明である。 廃城になって久しい頃に書かれた『仙台領古城書上』には、東西36間(約65メートル)、南北45間(約82メートル)とある。同書によれば、城の西に堀形と四重の土手形があったという。写本によっては、南北42間(約77メートル)とするもの、東・北・南の掘と土塁は一重だったとするものもある。 宅地化が進む前には堀跡が一部地面のくぼみとして残っており、発掘がなされる前から地形観察と現地の伝えによって部分的に濠跡が推定できた。江戸時代・明治時代の地図では、南だけ直線の辺で、他の方面はまるみを帯びた、茶碗を伏せたような形の道・溝が見て取れる。北側の道にそって帯状の水田があり、近年までそれが濠跡と伝えられていた。これが北側の外堀と考えられる。 また、その南にも内濠あとと見られる東西に走る溝が、地面のわずかなくぼみとして残っていた。発掘調査では、幅17メートル、深さ2メートル以上の堀として確認された。その南にはおそらく土塁があり、土塁の背後にもう一本並行して幅4から6メートル、深さ1.7メートルの濠跡が確認できた。第1次、第2次調査によると、そこからさらに南約50メートルほどのところにも、やはり東西に並行して走る幅1から4メートル幅の溝2本があり、おそらく同じくらいの幅の南北方向の溝と直行して城内中心部を区画していた。 南の外濠は第3次、第4次の発掘調査によって発見された。15-16世紀に作られた上端幅7メートルから11メートルの二重のおおきな溝(おそらく水濠)が2本並行して東西に走り、その間に土塁があった。外側の溝の底には低い畝が作られ、水面下に隠されて、渡る人の足場を悪くしたらしい。これを外堀とすると、南北約200メートルの規模になる。東西の外濠は不明で、内濠がどのようにめぐっていたかもわからないが、一応、東西、南北約200メートルの範囲におさまるとされている。
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立地と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/13 07:56 UTC 版)
仙台北郊に広がる丘陵の東端、宮城県道8号仙台松島線(石巻街道、利府街道)の南にあった。糠塚の名については、利府町の坂上田村麻呂伝説にあらわれる九門長者の家の糠からできたという言い伝えがあった。直径約30メートル、高さ5メートルだが、土を積んだのは上の2メートルで、下は地山である。自然の地形を利用し、余計な部分を削り、足りないところに土を積んで形を作ったものであろう。埴輪も葺石もない。墳頂から下に、深さ0.5メートルの楕円形の穴が掘られていた。東西に長く、長さは3.5メートル、その幅は1.3メートルであった。遺構はこの落ち込みだけであり、それ以外の遺構は検出されず、遺物もなかった。
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立地と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:37 UTC 版)
「兜塚古墳 (仙台市)」の記事における「立地と構造」の解説
仙台平野を流れる広瀬川の南岸(右岸)、大年寺山東麓の沖積平野に築かれた。似たような立地で兜塚よりやや小ぶりの古墳が一塚古墳、二塚古墳、裏町古墳などである。やはり近辺の大野田古墳群は、それらよりさらに一回り小さく、密集した古墳群である。兜塚古墳などの被葬者は大野田古墳群の被葬者の上に立つ首長層と説かれる。 現状は径約50メートルの円墳のように見えるが、これは市道兜塚線によって前方部が切り取られたためである。推定規模は後円部の径が62.4メートル、前方部の長さ15メートルで主軸長約75メートル、前方部前端の幅が約30メートル、後円部の高さ6.8メートル。周溝の幅は後円部で13メートル。前方部が著しく小さな帆立貝形である。 後円部は2段が肉眼で明瞭にみてとれ、3段以上ありそうにも見える。この段を兜に見立てたのが名の由来であろう。段の斜面には葺石が置かれた。また、円筒埴輪と朝顔形埴輪が並べられた。
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立地と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 06:19 UTC 版)
バンクーバーのダウンタウンの、金融街の中心に位置する地下駅である。バラード通りに面したところに所在しており、駅名はその同通りに由来する。ヴィクトリア朝時代を意識したガラス張りの屋根を備える駅舎は地上部分の面積が小さく、その下に地下3階建ての構造を有する。東側はバラード通りに面し、西側入口は小さな公園のようになっている。 周囲はまさにバンクーバーの中心部で、金融業者やホテル、商業施設などが多く立ち並んでいる。エスカレーターを降りてすぐの地下1階には、ベンタルセンターやロイヤルセンターといった近隣の商業ビルに繋がる地下通路も備える。ベンタルセンターへの地下道は開業時からのもので、のちにロイヤルセンターへと繋がった。 地下駅のホームは片側1面で、西方面行き(至ウォーターフロント駅)ホームが地下2階、東方面行き(至キングジョージ駅・VCCクラーク駅)ホームが地下3階と分かれている。 近隣の道路にはトランスリンクのバス路線発着所が無数にあり、中心部とメトロバンクーバー郊外とを結ぶ路線も数多い。
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立地と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 19:48 UTC 版)
文禄・慶長の役を通じて日本軍は朝鮮半島南岸各地に倭城群を築いて布陣していた。その中でも最西端にあたる全羅道順天の光陽湾に面した沿岸に1597年11月から、小西行長、宇喜多秀家、藤堂高虎を中心として築城を始め、突貫工事により城は短期間で完成をみる。 城の立地は小さな半島状の地形で、三方は海に囲まれた天然の要害で、西側だけが地続きとなっており、ここには丘陵稜線ラインに沿って石垣で長塁を築き、外郭として敵の侵入を塞いでいた。本城は東側最奥部の海に突き出した小山に築かれ、ここに石垣を積み上げ、山頂には3重の天守を上げた。 外郭と本城の間には入り江があり、この入り江には艦船が停泊し軍港の役割を果たしていた。宇都宮国綱の軍功記である『宇都宮高麗帰陣物語』によれば「600艘の船が2つの入り江に入っていた」という。周辺の海は遠浅となっており、そのため海上からの救援が困難であるとしてこの城を放棄する案が提出されたこともあるが、この案は豊臣秀吉が却下した。実際に明・朝鮮軍が攻め寄せたときには、逆に遠浅の海が幸いし、多くの明・朝鮮の軍船が座礁している。現在周囲の海は大部分が埋め立てられている。
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立地と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 03:57 UTC 版)
高善山(竜神山)の北西にあたる丘陵地にあり、単郭四方土塁・周濠の城で、多重の空堀などの構造を持つ。東側に二重の空堀、主郭虎口の石垣痕跡が現存、東隅に「御滝女郎化粧井戸」と呼ばれる大井戸が残っている。
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立地と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 02:34 UTC 版)
大ピラミッドはギザ台地と呼ばれる巨大な岩盤の北端に位置する。台地は石灰岩累層で東西2.2㎞、南北1.1㎞で5000万年前に地上に現れたと考えられている。この場所は、宗教的な理由からナイル川の西側で、首都メンフィスに近いなどの理由から選ばれたとされる。 大ピラミッドは石灰岩製の石板を並べて作られた基壇の上に建てられ、その底面の誤差は水平2.1cm、南北の方位0度3分6秒、側面長さ4.4cmという驚異的な精度で建造されている。岩盤の上に正確に水平な基壇を作った理由はスネフェルのピラミッドの失敗を教訓にしたものと考えられる。 大ピラミッドは完成時には化粧石で覆われ綺麗な四角錐であった。化粧石はナイル対岸のトゥーラから運ばれた良質な石灰岩で、完成時には白く輝いていたと考えられているが、イスラム時代にカイロの街をつくるための建材として剥がされ、底部に一部が残るのみである。また頂部のピラミディオン(キャップストーン)も失われている。現在は化粧石の下地であった裏張り石が露出しており、表面は階段状でその総数は203段である。石材は1つ平均で2.5t程度とされ、230万個の石材が使用されていると推定される。1段あたりの高さは段ごとにまちまちで、35段、44段、67段、90段などいくつかの段に大きな石が使われているが、その理由は分かっていない。ディーター・アルノルトは、大きな石は内部にあるコアの階段状になっている位置を示すとの仮説を立てている。石材同士はモルタルで接着されているが、これは建造時に梃子をつかって滑らせて移動する際の潤滑剤の役割もあったと考えられる。 大ピラミッドの構造はその中心となるコアがあるとする説があり、特に上昇通路が貫通しているいわゆる帯石はその境界とする見解がある。実際に同時代のピラミッドはコア構造をしており、その蓋然性は高いが、実際の構造は確認されていない。また、大ピラミッド全体が四角い石を積み上げたのではなく、内部には不揃いな小部屋が複数あり、その中に充填材を詰め込んだ構造だと考えられている。現在、北東の角の地上から80m程の高さの位置に窪みがあり、その隙間から洞窟状のスペースに入ることが出来る。これを実見した河江肖剰は、この場所を充填材を詰め込んだスペースが露出した場所だと推測している。
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