新潟大和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 02:56 UTC 版)
新潟県新潟市古町にあった百貨店。跡地は再開発され複合ビル「ルフル」が建っている。 地元新潟の片山三男が埼玉県行田の足袋商であった本山政一と紙問屋の藤井忠太郎店跡に店舗を建設し、1937年(昭和12年)9月29日 に萬代百貨店として 新潟市の中心市街地古町地区 の一角に開業した。 初日から空前の人出となるなど集客では順調な滑り出しを見せたが、ライバルの小林百貨店が初年度から5.5万円の利益を上げたのに対し、萬代百貨店はノウハウ不足で半年後の決算で大赤字となったため、1938年(昭和13年)に宮市大丸と系列の丸越から経営陣が派遣されてその傘下に入り、1939年(昭和14年)に金沢市の丸越と合併して丸越新潟店になり、1943年(昭和18年)12月に合併で大和が誕生したのに伴い、大和新潟店となった。 太平洋戦争後の一時期は商品が不足していたこともあって1階を消防車の駐車場に貸して2・3階のみで営業し、1950年(昭和25年)頃でもアメリカ合衆国から輸入した中古衣料が跳ぶように売れるような状況であった。 その後、品揃えが元に戻って通常の百貨店営業に戻っていき、ラジオ新潟(現新潟放送)の本社とスタジオが開業初期は7階に入居していたが、1955年(昭和30年)10月1日未明に新潟市中心部を襲った昭和新潟大火で店は全焼してしまった ことに伴い移転した。 ところがこの大火からわずか10日間で1階部分のみとはいえ営業再開に漕ぎ着けたことが市民から高く評価されて、再開後はライバルの小林百貨店を売上高で凌駕するようになった。 1964年(昭和39年)の新潟地震の際にも建物の被害がなかったこともあって翌日からパンや瓶詰などの食品を販売するなど災害のたびに迅速に対応を行った。 1960年(昭和35年)7月には新潟市本町通に新潟丸大が開店し 1964年(昭和39年)7月に百貨店法による営業を認可を受けて正式に百貨店となり、1970年(昭和45年)にイチムラの新潟店(後の新潟ウィズ)も開店した ことから当社長岡店のライバル百貨店2社と2都市で近接して競い合う3つ巴の状況となると共に、当店のある古町地区は百貨店4店が立ち並ぶ繁華街となった。 新潟を代表する繁華街を代表する百貨店として第1回新潟県美術展覧会や地元美術家の個展開催などを通じて地域の文化の中心としての役割も果たしていた。 しかし、1973年(昭和48年)11月に万代シティにダイエー新潟店(売場面積19,262m2)が開業すると、1979年(昭和54年)に全国のダイエー店舗で売上1位になるほどの顧客を集め、1991年(平成3年)2月期には売上高約191億円上げて1992年(平成4年)2月期に売上高約207億円を記録した当店に匹敵するレベルに達するなど、古町地区や当店にとって強力なライバルが登場し、さらに1984年(昭和59年)4月1日に万代に新潟伊勢丹(売場面積22,800m2) が開業して万代地区の商業機能が一段と強化されると共に、2009年(平成21年)3月期に同店が売上高約350億円で当店の2009年(平成21年)2月期の74億円や小林百貨店の後身の新潟三越の2009年(平成21年)3月期の売上高約169億円を大きく引き離して地域一番店になるほどの販売力を見せるなど百貨店間の競合や古町地区の「地盤沈下」が生じていった。 そこへ追い討ちを掛けるように2000年(平成12年)の大規模小売店舗法の改正に伴う規制緩和が行われたため、2月8日のアピタ新潟亀田店(売場面積37,462m2)の開店を皮切りに、2002年(平成14年)6月19日のアークランドサカモトを核店舗としたアークプラザ新潟(売場面積35,634m2)、9月30日のコメリを核店舗とした河渡ショッピングセンター(売場面積24,046m2)、2003年(平成15年)2月8日のアピタ新潟西店(売場面積29,436m2)、2007年(平成19年)10月26日のイオン新潟南ショッピングセンター(売場面積41,699m2) 郊外への広大な無料駐車場を備えた大型店進出が相次ぎ、古町の歩行者は2000年(平成12年)から8年間で7割以下に減って年間売上額も1994年(平成6年)頃の約1430億円をピークに2007年(平成19年)には約860億円に落ち込み、1985年(昭和60年)に開業してファッションや飲食関連のテナントが集積して人気を集めていた新潟ウィズもヴィレッジヴァンガードやビームスなどの有力テナントの撤退 が2008年(平成20年)秋から撤退が続いて 2009年(平成21年)2月時点で約半分が空き店舗となり、2009年(平成21年)6月時点で店につながる地下商店街「西堀ローサ」の全46区画のうち半分が空き店舗になるなど古町地区の「地盤沈下」は一層進んだ影響や先述した伊勢丹や三越との競合に敗れて近年は新潟市内の百貨店で3番手に落ち込むなどしたため1996年(平成8年)頃から赤字が続き、2006年(平成18年)9月から2階に新潟市まちなか行政サービスコーナー(愛称「なかなか古町」、パスポートセンター併設)を開設をするなど新潟市も支援を行ったものの、改善の見込みがないとして2010年(平成22年)6月25日に閉店した。 店舗跡の利用については、商店街有志で作る有限会社「古町まちづくりカンパニー」が新潟プラザビル部分を借りて地下食品街などの運営を継続する案もあったが、電源や非常階段などが本館と一体で分離して運営するのに2億円超の規模の改修が必要で土地・建物の権利関係も複雑だった上、新潟市長を本部長となっている「まちなか再生本部会合」が「あくまでも緊急措置であり、大和跡地に本来どのような機能がふさわしいのか議論が十分になされていない」としてこの案に否定的だった ため、この案は実現せず、2010年(平成22年)8月から2011年(平成23年)3月まで新潟商工会議所が借りてふれ愛古町 としてイベント会場などに活用し、その後2011年(平成23年)9月23日に山下家具店が1-3階にヤマシタ新潟古町店を開店して 一時的に利用して営業している。 閉店発表当初店舗跡の大和の保有分は売却する方針を打ち出していたが、土地・建物は、第四銀行の融資の担保となっていて「融資を返さないと担保ははずれない。その上でないと原則売却できない」 など売却に障害も多かったため方針転換し、2011年(平成23年)2月4日に自社で所有する店舗跡と隣接する堀川事業・タカツ商事が所有する新潟プラザビルと共同で再開発することで合意したと発表され、2012年(平成24年)3月15日に 周辺の地権者11人を含む「古町通7番町D地区再開発推進協議会」 でスーパーマーケットなどの入る商業施設とマンション・介護施設の複合ビルを建設する再開発の基本構想で合意が成立して再開発準備組合設立に動き始めているが、再開発後のビルへの百貨店大和の再出店は競合があることや自社の体力の面から否定的である。2017年(平成29年)7月に再開発組合は商業・オフィス用の12階建て複合ビルを建設する事業計画認可を受け、2020年に「ルフル」が完成した。 当店に隣接する「西堀ローサ」空き店舗は閉店約2か月前の2010年(平成22年)4月23日に23区画で一斉に新装開店し解消したが、当店閉店の影響の方が大きく、閉店して2週間後の周辺歩行者通行量は店舗前で23.8%、柾谷小路をはさんで隣の古町6で25.9%減少するなど古町9地点の調査で約20%も減少し、閉店翌年の2011年(平成23年)10月に行われた調査では前年比15%減とさらに落ち込むなど古町の集客力の衰えが進んでいる。
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