新潟宣教とは? わかりやすく解説

新潟宣教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 14:17 UTC 版)

セオボールド・パーム」の記事における「新潟宣教」の解説

悲しみから立ち上がり4月から新潟医療伝道開始することになったパームには陶山水谷夫妻、さらに聖公会イギリス人ジョン・パイパー同行した4月15日パーム一行三国峠越えて21日新潟入りをした。早速、湊町三丁目日本家屋借りて住み、その一部説教所に当てて、昼は医療活動従事して、夏ごろからアメリカオランダ改革派宣教師マーティン・ワイコフ教え子雨森信成紹介され雨森説教通訳をした。しかし、新潟現地人拉致され頭痛になった雨森は、3ヶ月ブラウン塾に戻ることになった雨森代役として、日本基督公会青年長老押川方義志願し1875年12月到着するこの年の末までに、新潟日曜礼拝が行われるようになり、1876年まで5人がパームより洗礼受けた1876年(明治9年)には住居町の中心部移し二軒隣の家病院神学生養成所にした。1877年新年からは、佐渡亀田水原葛塚中条新発田沼垂長岡などに、伝道医療働き拡大する定期的に巡回する伝道出張所の数は10箇所及んだ1879年(明治11年)にパーム中条に家を購入して説教所にした。4月には新し夫人のイザベル・メアリ・コラスと共に中条巡回した1880年(明治13年)までに88名がパームから洗礼受けた1881年(明治14年)には会員73人で新潟教会(現日本基督教団新潟教会)を組織した1880年8月6日新潟大火により診療所焼失したが、エディンバラ医療宣教会から援助により、南浜通二番町移転し病院建設しパーム病院改称した。この大火きっかけで、押川方義吉田亀太郎宮城県伝道のために仙台移動した1883年(明治16年)4月大阪第二回在日プロテスタント宣教師協議会が「現地教会自給」というテーマ開催された。パームはその会議で「医療伝道位置」というテーマ講演した。その半年後の1883年10月30日に、賜暇休暇のためにイギリスに帰国する。

※この「新潟宣教」の解説は、「セオボールド・パーム」の解説の一部です。
「新潟宣教」を含む「セオボールド・パーム」の記事については、「セオボールド・パーム」の概要を参照ください。

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