北条砂丘の農業利用史
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砂丘への灌漑と稲作の取り組み かつて、北条砂丘はかつては不毛の砂地とされてきた。。 砂丘は江戸期の鳥取藩の時代に大きく変貌を遂げた。鳥取藩は享保年間(1716年-1735年)から飛砂対策として各地の砂丘に大規模な植林をはじめ、砂丘の安定化を図った。北条砂丘では橋津側から植樹がはじまり、1坪あたり6本の密度で松を植えた。砂丘は養分が少なく松の成長が遅いうえに、地表の砂が風で動くために、そのままでは松が大きくなる前に砂に埋もれてしまう。そのため、シダと竹を編んだ垣根をつくり、これで囲って苗を保護する方法がとられた。このあたりでは7万9000本の松が植えられた。 砂防林の松林が定着して成長し、実際に北条砂丘の農業利用の試みが始まったのは安政年間(1854年-1860年)である。これに先立つ天保年間(1830年-1844年)の天保の大飢饉では、鳥取藩でも2万人の死者を出し、「申年がしん」と呼ばれる大参事となった。東園村(現在の北栄町東園)の桝田新蔵は、食糧増産をはかるために私財を投じて砂丘地帯への灌漑整備を計画した。鳥取藩では新田開発の必要性を認識していたものの、藩の財政は困窮しており、自費で工事を行うという桝田新蔵の申し出を歓迎して許可を出した。こうして安政年間(1858年)から用水路の開削工事が始まった。 既に南の北条平野には、天文年間の大氾濫以前の小鴨川の流路を利用した北条用水(現在の北条川)が引かれており、そこから分水して砂丘への用水路を拓く計画だった。一方で、計画に反対の者も少なくなかった。用水路は幅2間(約3.6メートル)を予定していたが、そのために既存の水田を潰すことになるからである。低地の砂地へ水を引き入れるために、勾配の検討や、水路の水が砂へ浸透してしまうのを防ぐために様々な方法が試みられ、長さ8キロに及ぶ水路が築かれた。ところが、水路が完成して水を引きれると、北条用水のほうが水不足に陥ってしまい、天神川本流から直接水を引く必要が生じた。ここへきて新蔵の財産も底をついてしまった。鳥取藩は新蔵の事業を評価し、残りの工事費用を藩が負担し、引き続き新蔵に指揮をさせて完成させた。 文久年間(1861年-1864年)に水路が完成し、新蔵が真っ先に入植し、20数戸がこれに続いた。文久2年(1862年)からは砂丘地での水田稲作も始まり、8反から6斗5分のコメの収穫があった。しかし、これはじゅうぶんな収穫量とはいえず、数年でみな畑作へ転じるか、入植地から離れてしまった。 畑作と繊維生産 北条砂丘での畑作は、小規模ながら稲作よりも早く行なわれてきた。海岸では地引網による漁業が行なわれており、海岸へ出るための歩路沿いの「浜畑」で棉の栽培が行なわれていた。棉は木綿の原料となるが、ここで生産された棉は倉吉で倉吉絣となった。倉吉絣の木綿の原料の主な産地は弓ヶ浜半島だったが、幕末期には北条砂丘はそれに次ぐ木綿の供給地となっていった。 一方、幕末に始まり、明治にかけて棉栽培にとって変わったのが桑畑である。この時期、養蚕によって生産される絹は日本の主要な輸出品となり、国をあげて絹生産が行なわれた。このあたりで桑栽培を推し進めたのが地元の豪農岩本廉蔵である。岩本は倉吉の千歯扱きを全国へ販売したことでも知られる篤志家である。灌漑設備を必要としないクワは砂丘に適した園芸作物で、明治から昭和初期にかけて北条砂丘は大規模な桑畑に変貌を遂げた。畑を拡げるために砂防林を伐採することさえあり、防雨林・砂防林は縮小した。倉吉市は明治から昭和にかけて紡績工場が集中し、繊維工業の都市に発展した。 ブドウ栽培 旧北条町にあたる砂丘の東部では、明治末期にブドウ栽培が始まった。このあたりにブドウが伝わったのは幕末の1856年で、甲斐国から持ち込まれたとされている。砂地特有の水はけの良さと、砂地の照り返しによる昼と夜の寒暖の差がブドウに適しており、明治40年(1907年)頃から砂丘での栽培が本格化した。西日本でのブドウ栽培としては稀有のもので、全国的な知名度を獲得した。 昭和に入って戦時体制が進むと、ブドウは生食用ではなく軍需品と扱われるようになった。というのも、ブドウからワインを醸造する過程で酒石酸が生成するが、これが酒石酸カリウムナトリウムとなって電波探知機の製造に必要だったのである。 終戦後はワイナリーに転じて北条ワインとなったほか、北条砂丘産の「砂丘ブドウ」は鳥取県の代表的な農産物になった。 浜井戸灌漑と「嫁殺し」 ほかにも、砂丘では野菜類の栽培が行なわれるようになったが、こうした砂丘上の畑への散水は人力によって行なわれてきた。この過酷な重労働は「嫁殺し」と呼ばれ、1960年代まで続いた。 灌漑のため、農地1反あたり1個の割合で「浜井戸」が掘られた。浜井戸の数は1940年代で1200箇所にのぼる。浜井戸の深さは1.5から2.5メートルほどで、北条平野南部から浸透して砂丘に阻まれた伏流水にあたる。ただし、夏期には水位がもっと下がるため、より深くまで掘る必要があった。ここから汲み上げた水を専用の桶に入れ、水がいっぱいになった桶2つを天秤の左右に吊るす。これを担ぎあげて砂の上を走って丘に登る。天秤と桶には専用の細工がされており、天秤を担いだまま桶の底から畑へ散水できるようになっていた。1反の畑へ散水するにはこの作業を明け方から日暮れまで繰り返す必要があり、夏の暑い時期には日光が砂から照り返し、極めて厳しい労働だった。地元ではこの作業を「嫁殺し」と言った。この苛酷さゆえに、砂丘での農業は小規模なものにとどまり、経営拡大を阻んできた。雨乞いのために毎晩太鼓を鳴らす風習もあり、これは郷土芸能「北条砂丘太鼓」として今も伝わっている。 灌漑の機械化と砂丘の変貌 太平洋戦争期や、戦後間もない時期に、食糧増産のため砂丘地での野菜栽培が本格化した。特にサツマイモをはじめ、カボチャやウリの栽培が行われ、戦後には葉タバコも主要な生産品になった。 砂丘での過酷労働を緩和し、食糧増産を支えるため、農林省と鳥取県は、北条砂丘への灌漑工事に乗り出すことになった。当初は、地元の北条町にとって主要作物だったブドウや桑が「食糧増産」に合致しないとして灌漑事業の対象外とされたため、反発を招いて事業反対運動に発展した。その後、事業の対象となる作物が拡大されて、1962年(昭和37年)から県営の工事が始まり、天神川からの引水整備工事が行なわれた。 この事業がひとまず完成したのは1966年(昭和41年)で、これによって北条ブドウの栽培が本格化した。このあと、砂丘を削って平らな農地を創成したり、農道の整備や不整形農地の区画整理などの圃場整備が行なわれ、農業の効率化も図られた。はじめはホースによる散水が行われたが、後にスプリンクラーの整備が行なわれた。さらに1990年代にはスプリンクラーの集中管理と自動化によって、農作業の集約化が実現した。近年は、北条平野の稲作農家が兼業で北条砂丘での野菜栽培を行うものが多い。 これらの事業によって、北条砂丘はかつての「不毛の地」から「農業の宝庫」へと変貌し、鳥取県の代表的な農業地帯の一つとなった。主に果樹・野菜・葉たばこの生産が行なわれている。とりわけ主要な作物はブドウとナガイモである。ブドウは前述のとおり、旧北条町の「砂丘ブドウ」が特産品となっている。ナガイモは砂丘地で速成されることで、小さいが形が整う、淡白な味わいでくどさがない、粘りが少ないなどの特徴があり、「砂丘ながいも」として旧大栄町の特産品となった。どちらも鳥取県の代表的な農産物の一つである。
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