北条砂丘の農業利用史とは? わかりやすく解説

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北条砂丘の農業利用史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:44 UTC 版)

倉吉平野」の記事における「北条砂丘の農業利用史」の解説

砂丘への灌漑稲作取り組み かつて、北条砂丘かつては不毛の砂地とされてきた。。 砂丘江戸期鳥取藩時代大きく変貌遂げた鳥取藩享保年間1716年-1735年)から飛砂対策として各地砂丘大規模な植林をはじめ、砂丘安定化図った北条砂丘では橋津側から植樹はじまり、1坪あたり6本の密度植えた砂丘養分少なく成長が遅いうえに、地表の砂が風で動くために、そのままでは大きくなる前に砂に埋もれてしまう。そのため、シダと竹を編んだ垣根をつくり、これで囲って保護する方法がとられた。このあたりでは79000本の植えられた。 砂防林松林定着して成長し実際に北条砂丘農業利用試み始まったのは安政年間1854年-1860年)である。これに先立つ天保年間1830年-1844年)の天保の大飢饉では、鳥取藩でも2万人の死者出し、「申年がしん」と呼ばれる大参事となった東園現在の北栄町東園)の桝田新蔵は、食糧増産をはかるために私財投じて砂丘地帯への灌漑整備計画した鳥取藩では新田開発必要性認識していたものの、藩の財政困窮しており、自費工事を行うという桝田新蔵申し出歓迎して許可出した。こうして安政年間1858年)から用水路開削工事始まった。 既に南の北条平野には、天文年間の大氾濫以前小鴨川流路利用した北条用水現在の北条川)が引かれており、そこから分水して砂丘への用水路拓く計画だった。一方で計画反対の者も少なくなかった用水路は幅2間(約3.6メートル)を予定していたが、そのために既存水田を潰すことになるからである。低地砂地引き入れるために、勾配検討や、水路が砂へ浸透してしまうのを防ぐために様々な方法試みられ長さ8キロに及ぶ水路築かれた。ところが、水路完成してを引きれると、北条用水のほうが水不足に陥ってしまい、天神川本流から直接を引く必要が生じた。ここへきて新蔵財産も底をついてしまった。鳥取藩新蔵事業評価し残り工事費用を藩が負担し引き続き新蔵指揮をさせて完成させた。 文久年間1861年-1864年)に水路完成し新蔵真っ先入植し20数戸がこれに続いた文久2年1862年)からは砂丘地での水田稲作始まり、8反から6斗5分のコメ収穫があった。しかし、これはじゅうぶんな収穫量とはいえず、数年でみな畑作転じるか、入植地から離れてしまった。 畑作繊維生産 北条砂丘での畑作は、小規模ながら稲作よりも早く行なわれてきた。海岸では地引網による漁業が行なわれており、海岸へ出るための歩路沿いの「浜畑」で栽培が行なわれていた。木綿原料となるが、ここで生産され倉吉倉吉絣となった倉吉絣木綿原料主な産地弓ヶ浜半島だったが、幕末期には北条砂丘はそれに次ぐ木綿供給地となっていった。 一方幕末始まり明治にかけて栽培にとって変わったのが桑畑である。この時期養蚕によって生産される絹は日本主要な輸出品となり、国をあげて生産が行なわれた。このあたりで栽培推し進めたのが地元豪農岩本である。岩本倉吉千歯扱き全国販売したことでも知られる篤志家である。灌漑設備を必要としないクワ砂丘適した園芸作物で、明治から昭和初期にかけて北条砂丘大規模な桑畑変貌遂げた。畑を拡げるために砂防林伐採することさえあり、防雨林砂防林縮小した倉吉市明治から昭和にかけて紡績工場集中し繊維工業都市発展したブドウ栽培北条町にあたる砂丘東部では、明治末期ブドウ栽培始まった。このあたりにブドウ伝わったのは幕末1856年で、甲斐国から持ち込まれたとされている。砂地特有の水はけ良さと、砂地照り返しによる昼と夜寒暖の差がブドウ適しており、明治40年1907年)頃から砂丘での栽培本格化した。西日本でのブドウ栽培としては稀有のもので、全国的な知名度獲得した昭和に入って戦時体制が進むと、ブドウ生食用ではなく軍需品扱われるようになったというのもブドウからワイン醸造する過程酒石酸が生成するが、これが酒石酸カリウムナトリウムとなって電波探知機製造必要だったのである終戦後ワイナリー転じて北条ワインとなったほか、北条砂丘産の「砂丘ブドウ」は鳥取県代表的な農産物になった。 浜井戸灌漑と「嫁殺し」 ほかにも、砂丘では野菜類栽培が行なわれるようになったが、こうした砂丘上の畑への散水人力によって行なわれてきた。この過酷な重労働は「嫁殺し」と呼ばれ1960年代まで続いた灌漑のため、農地1反あたり1個の割合で「浜井戸」が掘られた。浜井戸の数は1940年代1200箇所にのぼる。浜井戸深さ1.5から2.5メートルほどで、北条平野南部から浸透して砂丘阻まれ伏流水にあたる。ただし、夏期には水位がもっと下がるため、より深くまで掘る必要があった。ここから汲み上げた専用入れいっぱいになった2つ天秤左右に吊るす。これを担ぎあげて砂の上走って丘に登る天秤には専用細工がされており、天秤担いだままの底から畑へ散水できるようになっていた。1反の畑へ散水するにはこの作業明け方から日暮れまで繰り返す必要があり、夏の暑い時期には日光が砂から照り返し極めて厳し労働だった。地元ではこの作業を「嫁殺しと言った。この苛酷さゆえに、砂丘での農業小規模なものにとどまり経営拡大阻んできた。雨乞いのために毎晩太鼓を鳴らす風習もあり、これは郷土芸能北条砂丘太鼓」として今も伝わっている。 灌漑機械化砂丘変貌 太平洋戦争期や、戦後間もない時期に、食糧増産のため砂丘地での野菜栽培本格化した。特にサツマイモをはじめ、カボチャウリ栽培が行われ、戦後には葉タバコ主要な生産品になった砂丘での過酷労働緩和し食糧増産支えるため、農林省鳥取県は、北条砂丘への灌漑工事乗り出すことになった当初は、地元北条町にとって主要作物だったブドウが「食糧増産」に合致しないとして灌漑事業対象外とされたため、反発招いて事業反対運動発展したその後事業対象となる作物拡大されて、1962年昭和37年)から県営工事始まり天神川からの引水整備工事が行なわれた。 この事業ひとまず完成したのは1966年昭和41年)で、これによって北条ブドウ栽培本格化した。このあと砂丘削って平らな農地創成したり、農道整備不整形農地の区画整理などの圃場整備が行なわれ、農業効率化図られた。はじめはホースによる散水が行われたが、後にスプリンクラー整備が行なわれた。さらに1990年代にはスプリンクラー集中管理自動化によって、農作業集約化実現した近年は、北条平野稲作農家兼業北条砂丘での野菜栽培を行うものが多い。 これらの事業によって、北条砂丘はかつての「不毛の地」から「農業宝庫」へと変貌し鳥取県代表的な農業地帯の一つとなった。主に果樹野菜葉たばこ生産が行なわれている。とりわけ主要な作物ブドウナガイモである。ブドウ前述のとおり、旧北条町の「砂丘ブドウ」が特産品となっている。ナガイモ砂丘地で速成されることで、小さいが形が整う、淡白な味わいでくどさがない粘り少ないなどの特徴があり、「砂丘ながいも」として旧大栄町特産品となったどちらも鳥取県代表的な農産物一つである。

※この「北条砂丘の農業利用史」の解説は、「倉吉平野」の解説の一部です。
「北条砂丘の農業利用史」を含む「倉吉平野」の記事については、「倉吉平野」の概要を参照ください。

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