北条平野
北条平野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:44 UTC 版)
北条平野(ほうじょうへいや)は、天神川の左岸に、東西に広がっている。天神川の沖積作用によって形成された三角州である。羽合平野と同じように、広い範囲で飛鳥時代に定められた条里制に基づく南北方向に沿った整然とした水郷地帯が広がっている。北条平野は、以前は東側の北条町と西側の大栄町とに分かれていたが、2005年に両町が合併して、今は北栄町が北条平野のほとんどを占めている。 山陰道が北条平野を東西に貫いているが、このあたりでは街道村は形成されず、近代に入っても本格的な都市は発展しなかった。北の北条砂丘や南の丘陵部の裾野に集落がある程度で、いまも大部分は水郷地帯である。北条平野の南側には、周囲を丘陵に囲まれた湾状の地形がいくつかある。これらの「湾」は、中世までは潟湖で、近世になって干拓が行なわれて水田となったため、飛鳥時代に敷かれた条里制になっておらず、水田の区画割りは南北方向に沿っていない。これらのうち、蜘ヶ家山の東側からは山陰最大級の貝塚遺跡である島遺跡が見つかっていて、数千年にわたり、ここが湖だったことを示している。また、蜘ヶ家山の西側の干拓地を灘手平野と呼ぶ場合もある。 天神川はかつて何度も大きく河道を変えており、現在の流路からみると右岸では東郷湖や橋津川に注いでいた時期があるが、北条平野がある左岸では西流して由良川に注いでいた時期もある。いまの天神川は、国府川、小鴨川、竹田川などの合流によって本流を形成しているが、これらは時代によっては合流していない時期もあった。倉吉盆地のあたりから北条平野にかけては高低差があまりない上に、急流の国府川や小鴨川は多くの土砂を流したために、しばしば川をせきとめ、河川争奪を繰り返してきた。かつては国府川と小鴨川が合流したのち、東へ向かわずに谷あいを抜けて北流し、灘手平野をぬけ、いまの由良川の流路で海に注いでいたこともある。いまのように、国府川・小鴨川・竹田川が合流する流路に定まったのは、天文年間(1532-1555年)に起きた大洪水によるもので、このときの大氾濫では倉吉盆地内の丘陵を突破し、旧来の市街地を押し流してしまったと伝わっている。 その後、近世に北条平野南部の潟湖の干拓が行なわれるとともに、かつて国府川と小鴨川が流れていた流路を利用して北条用水(北条川)が築かれた。いまの北条川は、国府川と小鴨川の合流地点から取水し、そのまま谷を北へ抜けて北条平野を流れたあと、由良川へ注いでいる。 由良川の西では、大山に由来する火山灰地の丘陵地帯が広がっており、黒ボクと呼ばれる土壌が広がっている。地形としてはこれらの丘陵地帯は「北条平野」とは言えないが、いまの北栄町の町域全体を指して「北条平野」ということもある。特に旧大栄町の大半がこの丘陵地帯に相当するが、この地域は特にスイカの栽培地として全国屈指の産地として知られており、「大栄すいか」がその代名詞となっている。このほか、葉たばこの生産も行なわれている。
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