羽合平野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:44 UTC 版)
羽合平野(はわいへいや)は、天神川の右岸に広がる平野である。西は天神川、北は日本海と海岸砂丘(羽合砂丘)、東は橋津川・東郷湖と、三方を水域に囲まれている。この地域には飛鳥時代(大化の改新)から条里制が敷かれており、いまも平野の大部分には南北の方位に沿って整然と区画された水田が600ヘクタールあまりに渡って広がっている。羽合平野の全域は、2004年の合併によって誕生した湯梨浜町に属しており、旧羽合町の中心部や東郷湖畔のはわい温泉などに市街地が形成されている。 羽合平野には、はわい温泉のほか東郷温泉などの温泉地が点在し、これらのボーリングの結果から、部分的ではあるが深さ100メートルほどのあたりまでの地層がわかっており、平野形成のメカニズムを知る手がかりになった。羽合平野の土台は、第四紀に形成された。これに先立つ新第三紀の終わり頃(鮮新世)に中国山地ができあがると、川がこれを削り、流された土砂が日本海側の海岸付近で堆積した。第四紀には寒冷な氷期と温暖な間氷期が繰り返され、その度に海面は上昇と下降を繰り返し、海岸線は前進したり後退したりした。羽合平野のあたりも何度か海の底になっており、その頃に海底で形成された地層と、陸上で土砂が堆積した層、そして大山などの火山による層の分布から、約10万年前から20万年前に羽合平野の原型ができあがったことがわかっている。こうした氷期・間氷期に形成された洪積層は50メートルから70メートルほどの厚さがある。その下には花崗岩の岩盤がある。 最後の氷期がおわり、温かい時代になった頃、羽合平野全体はラグーンを成していた。小鴨川、国府川、竹田川(現在の天神川本流)、三徳川らをあわせて狭い谷を抜けてきた天神川は、北条砂丘や羽合砂丘によって北進を阻まれ、近世に至るまで何度も流路を変えた。古い時代には東郷湖へ注いでおり、中世には橋津川に注いでいた。この天神川の沖積作用によってラグーンが埋め立てられていき、三角州が形成された。これが羽合平野である。この時期に形成された沖積層はおおよそ30メートルから40メートルの厚さがある。 平野の南西には、古い火山の溶岩流の北端である大平山の尾根が北へ長く張り出している。この尾根によって天神川の沖積作用が平野の奥まで行き渡るのを妨げられた結果、東郷湖が潟湖として残された。東郷湖の東岸では、東郷湖へ注ぐ東郷川や舎人川による小さな堆積平野がつくられているが、これらの地域には条里制は行き渡っていない。平地部分では稲作が行なわれているが、丘陵地帯では二十世紀梨などのナシ栽培が盛んに行なわれている。 中世の下地中分を示す典型資料として有名な東郷庄下地中分絵図(1258年・正嘉2年)では、天神川が橋津川へ注ぐ様子が描かれている。この絵図では、古代の条里制時代からの水郷地帯に設けられた松尾大社の荘園が、地頭となった東郷氏による簒奪を受けていることが示されている。室町時代になると、東郷氏は南条氏によってこの地域から駆逐された。南条氏は東郷湖の南の山上に羽衣石城を築いてこの一帯を支配した。のちに西の尼子氏や毛利氏、東の山名氏といった大勢力に挟まれながらも、戦国末期まで生き残ったが、関ヶ原の戦いで西軍について、戦後に所領を失った。その後は鳥取藩の支配地域となった。 このあたりの地域の中で、羽合平野は条里制の区画割りを現代でももっともよく残している。この整然とした区画割りが乱れているあたりは、条里制が敷かれた飛鳥時代よりも後世に農地化されたことがわかる。つまり条里制が敷かれた古代には水域だった場所となる。これにより、東郷湖は古代よりも縮小しており、大きいところでは800メートルあまりも湖岸が縮退している。 寛文年間(1661-1672)に鳥取藩が天神川の河道の大改修を行い、いまのようにまっすぐ北流して日本海へ注ぐ形になったが、現在の湯梨浜町役場などが集まる中心市街地付近では、概ね国道179号に沿うように、条里制の整然とした区画になっていない地域が帯状に連なっており、これらの地域が条里制が敷かれた飛鳥時代には河道だったことを伝えている。江戸時代には、羽合平野は伯耆を代表する穀倉地帯となり、収穫物は橋津川の河口から水運によって各地へ運びだされていた。
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