個人の評価とは? わかりやすく解説

個人の評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:13 UTC 版)

諸葛亮」の記事における「個人の評価」の解説

李厳諸葛亮手紙出し九錫を受け王となるよう勧めたことがあった。それは劉禅から帝位を奪うことに繋がる行為である。そのため「魏を滅亡させ、あなた方一緒に昇進するならば、九どころか十の恩典でも受ける所存です」と李厳申出拒絶した。(『諸葛亮集』) 司馬懿諸葛亮手紙出し黄権(魏に降伏した蜀漢将軍)は快男児です。彼はいつも、あなたのことを賛美し話題にしています」と述べた。(『蜀書黄権伝』) 李邈中国語版):諸葛亮の死後劉禅上表して「(諸葛)亮は強兵身辺に置き、のように狡猾で、虎のように(叛逆の)機会窺っていました強大な臣下辺境におくのは危険であり(『春秋左氏伝』より)、臣はいつも危惧していました。今亮が没したのは、皇室安泰得られ西戎西方の非漢民族)は安息得られたのですから、万民慶祝すべきと存じます」と主張した劉禅怒り李邈誅殺した。(『華陽国志』) 「竹林の七賢」の一人嵆康は「徐庶母親のために劉備のもとを離れたが、諸葛亮はこれを止めなかった。これこそ真の友情である」と述べた。(『山濤宛てた手紙』) 袁準:「諸葛亮基本を守る人間で、状況の変化対応するのは得意ではなかった。だから不得手な面(状況の変化対応する事)で無理をしなかったのである不得手な点を知って無理をしない事こそ賢者偉大なところである」(裴注所引『袁子』) 傅玄諸葛亮誠に当代異才であり、国を治めるのに分別があり、軍を御するのに法があり、功を積み興業をなし、その機を得ることに余力残さずついやした。蜀が弱国で危ういことを知り、慎重堅持して国を鎮めた『傅子』)。 東晋武将桓温347年に蜀の成漢滅ぼし入蜀果たした際、諸葛亮生きていた時に小吏務めていたという百歳超える老人対し桓温が「諸葛丞相は、今で言えば誰と比べられるか?」と問うた所「諸葛丞相存命中の時はそれほど特別なお方のようには見えませんでした。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの人のような人はもういらっしゃらないように思います」と答えたという(『説郛』に収める殷芸小説』)。なお、桓温簡文帝臨終の際に禅譲考えていたことから、簡文帝に「諸葛亮王導のように皇太子孝武帝)を補佐してほしい」と遺詔された。その結果桓温野望潰えた常璩:「諸葛亮は英覇之能を持ち政・理民を脩めて、その武威を外に振るった」(「華陽国志」) 東晋習鑿歯は、かつて劉備が「馬謖重事任せてならない」といましめいながら諸葛亮北伐際し馬謖将に起用して大敗し、彼を処刑してしまったことを踏まえて人を見る目という点で大失敗犯し聡明な君主いましめに背くことになり、人を裁く上で的を外し有益な人物を殺すこととなった」とし「中国併呑できなかったのも当然のことではなかろうか」と厳しく断じている。しかしその一方李厳廖立廃しながらも、その二人恨みがましい言葉どころかその死を嘆かせた事をあげ「諸葛亮刑罰行使がよく的を射ていたといってよく、秦・漢以来絶えて無かったことである」と法の厳正さを賞賛している。また『漢晋春秋』の中で「諸葛武侯は漢を匡すの望有り、是れ本を宗ぶの心有るなり」と漢の復興諸葛亮本望であると述べた。また『襄陽記』には、巴蜀では死後永くその統治慕い懐かしんだ死後、廟の建立求める声が各地から挙がり特別に議して沔陽立てられと書いている。 孫盛:「諸葛亮名声謀略は、外敵征圧するのに十分であり、故に異同心無く振舞うことができたのである」(「諸葛亮伝裴注」) 桓玄:「いにしえより乱世君臣互いに信じあっていた者は燕の昭公楽毅玄徳孔明である」(『晋書劉牢之伝』) 裴松之:「諸葛亮が魏に仕えて能力発揮していたら、陳羣司馬懿でも対抗できなかっただろう。あえて魏に臣従しなかったのは皇族英傑劉備)を補佐し漢の復興を果たすことを自己の責務としたからである」(「諸葛亮伝裴注」) 李暠:「諸葛亮の訓励・応璩の奏諌を覧るに、其の終始尋ぬれば周孔の教尽く中に在り」(『晋書』武昭王伝) 劉義慶諸葛誕仕官した時「蜀漢其の龍(諸葛亮)を得、呉は其の虎(諸葛瑾)を得、魏は其の諸葛誕)を得たり」といわれた。また東晋王徽之王羲之の五男)は、北府徐州刺史)を拝命した郗愔の家に来て応変将略は、その長ずるところにあらず」と何度も言った。郗愔の次男怒ったが、長男は「これは陳寿諸葛亮評だ。何の文句があろうか」と言った世説新語)。 隋における第一儒者王通は「諸葛亮が死ななければ、さらに礼楽礼節音楽のこと、儒教根本的規範)は興隆したであろう」と述べた。(『文中子』) 唐の宰相裴度は「君に仕え節度、国を開く才能立身方法、人を治め技術、この四条件を全てそなえ実践したのは孔明その人である」と称賛した。(『蜀丞相諸葛武侯祠碑文』) 杜甫:「伊尹呂尚伯仲し天下がその指揮服したならば蕭何曹参問題にならなかっただろう」(「詠懐古跡」)、また漢詩「蜀相」の中で、諸葛亮生き様後世英雄たちに涙を流させたと評価した。 唐の文人孫樵は「武侯孔明)が死んでほとんど500年になろうとしているが、今に至るまで漢(蜀)の民はその事績を歌にうたい、廟に祭る者あるが如し。その民に愛されることかく如く久しい」と『刻武侯碑陰』に書く。 北宋神宗王安石に対して「唐の太宗魏徴用い劉備諸葛亮用いることにより様々な政策実施することができた。この二人まことに不世出政治家である」と述べた。(『東都事略王安石伝』) 北宋司馬光諸葛亮丞相の時、恩赦惜しんで簡単に出さない指摘された。それに対し「世を治めるには優れた徳で治めるのであり、小さな恩恵治めるのではない」と答えた。(『資治通鑑』) 蘇軾:「強大な曹操に対して、自らの内の忠信の心のみをもって対抗した」(『東坡全集前集43諸葛亮論」)。劉璋支配していた益州奪ったことに関しては「劉璋騙し討ちにし、荊州に連れ去った事で天下声望失ったこれでは曹操と変わる所が無い。劉備曹操では才能兵力領土大きな差があり、忠信の心のみが勝っていた。(劉璋騙し討ちにして)これを失ってから北伐大義唱えて上手く行くはずが無い」と述べている(前掲諸葛亮論」)。これに対し、明の学者王世貞は、劉璋を討つ事を劉備勧めたのは諸葛亮ではなく龐統法正である事、また劉焉漢朝からの独立企図した叛臣みるべき存在であり、子たる劉璋を討つ事は正当化される事などを理由として反論している(『読書後』巻2「書蘇子諸葛亮論後」)。 託克託:「岳飛忠義の言、眞に諸葛孔明の風有るも卒に秦檜の手死す」(『宋史岳飛伝』) 朱熹:「孟子以降人物として張良諸葛亮がいるのみである」(『朱子語類』163歴代3) 方藹:清の順治帝から「諸葛亮伊尹比べてどうだろうか」と質問され伊尹聖人ですから孔子匹敵させるべきです。諸葛亮大賢者ですから顔回匹敵させるべきです」と答えた。(『清史稿方藹伝』) 清の康熙帝劉備劉禅対す献身について「臣下たる者の中で、諸葛亮だけがこのようなことを成しえた」と述べた。(『大清聖祖皇帝実録』) 竹中重門竹中重治没した時「秀吉限りなく悲しみ劉禅孔明失いしにことならず」(『豊鑑』) 平田篤胤:「孔子以後孔明がいるだけだ」(『西籍概論』) 木戸孝允:「楠木正成諸葛亮のような有能な人材登用すべきだ」(長州藩士宛てた手紙

※この「個人の評価」の解説は、「諸葛亮」の解説の一部です。
「個人の評価」を含む「諸葛亮」の記事については、「諸葛亮」の概要を参照ください。

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