個人の評価
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李厳:諸葛亮に手紙を出し、九錫を受け王となるよう勧めたことがあった。それは劉禅から帝位を奪うことに繋がる行為である。そのため「魏を滅亡させ、あなた方と一緒に昇進するならば、九どころか十の恩典でも受ける所存です」と李厳の申出を拒絶した。(『諸葛亮集』) 司馬懿:諸葛亮に手紙を出し「黄権(魏に降伏した蜀漢の将軍)は快男児です。彼はいつも、あなたのことを賛美し話題にしています」と述べた。(『蜀書黄権伝』) 李邈(中国語版):諸葛亮の死後、劉禅に上表して「(諸葛)亮は強兵を身辺に置き、狼のように狡猾で、虎のように(叛逆の)機会を窺っていました。強大な臣下を辺境におくのは危険であり(『春秋左氏伝』より)、臣はいつも危惧していました。今亮が没したのは、皇室は安泰を得られ、西戎(西方の非漢民族)は安息を得られたのですから、万民が慶祝すべきと存じます」と主張した。劉禅は怒り、李邈を誅殺した。(『華陽国志』) 「竹林の七賢」の一人の嵆康は「徐庶は母親のために劉備のもとを離れたが、諸葛亮はこれを止めなかった。これこそ真の友情である」と述べた。(『山濤に宛てた手紙』) 袁準:「諸葛亮は基本を守る人間で、状況の変化に対応するのは得意ではなかった。だから不得手な面(状況の変化に対応する事)で無理をしなかったのである。不得手な点を知って無理をしない事こそ賢者の偉大なところである」(裴注所引『袁子』) 傅玄:諸葛亮は誠に当代の異才であり、国を治めるのに分別があり、軍を御するのに法があり、功を積み興業をなし、その機を得ることに余力を残さずついやした。蜀が弱国で危ういことを知り、慎重堅持して国を鎮めた(『傅子』)。 東晋の武将の桓温が347年に蜀の成漢を滅ぼし入蜀を果たした際、諸葛亮が生きていた時に小吏を務めていたという百歳を超える老人に対し、桓温が「諸葛丞相は、今で言えば誰と比べられるか?」と問うた所「諸葛丞相が存命中の時はそれほど特別なお方のようには見えませんでした。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの人のような人はもういらっしゃらないように思います」と答えたという(『説郛』に収める殷芸『小説』)。なお、桓温は簡文帝臨終の際に禅譲を考えていたことから、簡文帝に「諸葛亮や王導のように皇太子(孝武帝)を補佐してほしい」と遺詔された。その結果、桓温の野望は潰えた。 常璩:「諸葛亮は英覇之能を持ち、政・理民を脩めて、その武威を外に振るった」(「華陽国志」) 東晋の習鑿歯は、かつて劉備が「馬謖に重事を任せてはならない」といましめていながら、諸葛亮が北伐に際し馬謖を将に起用して大敗し、彼を処刑してしまったことを踏まえて「人を見る目という点で大失敗を犯し、聡明な君主のいましめに背くことになり、人を裁く上で的を外し、有益な人物を殺すこととなった」とし「中国を併呑できなかったのも当然のことではなかろうか」と厳しく断じている。しかしその一方李厳や廖立を廃しながらも、その二人に恨みがましい言葉どころかその死を嘆かせた事をあげ「諸葛亮の刑罰の行使がよく的を射ていたといってよく、秦・漢以来絶えて無かったことである」と法の厳正さを賞賛している。また『漢晋春秋』の中で「諸葛武侯は漢を匡すの望有り、是れ本を宗ぶの心有るなり」と漢の復興が諸葛亮の本望であると述べた。また『襄陽記』には、巴蜀では死後も永くその統治を慕い、懐かしんだ。死後、廟の建立を求める声が各地から挙がり、特別に議して沔陽に立てられたと書いている。 孫盛:「諸葛亮の名声、謀略は、外敵を征圧するのに十分であり、故に異同の心無く振舞うことができたのである」(「諸葛亮伝裴注」) 桓玄:「いにしえより乱世の君臣で互いに信じあっていた者は燕の昭公と楽毅、玄徳と孔明である」(『晋書劉牢之伝』) 裴松之:「諸葛亮が魏に仕えて能力を発揮していたら、陳羣や司馬懿でも対抗できなかっただろう。あえて魏に臣従しなかったのは皇族の英傑(劉備)を補佐し漢の復興を果たすことを自己の責務としたからである」(「諸葛亮伝裴注」) 李暠:「諸葛亮の訓励・応璩の奏諌を覧るに、其の終始を尋ぬれば周孔の教尽く中に在り」(『晋書』涼武昭王伝) 劉義慶:諸葛誕が仕官した時「蜀漢は其の龍(諸葛亮)を得、呉は其の虎(諸葛瑾)を得、魏は其の狗(諸葛誕)を得たり」といわれた。また東晋の王徽之(王羲之の五男)は、北府(徐州刺史)を拝命した郗愔の家に来て「応変将略は、その長ずるところにあらず」と何度も言った。郗愔の次男は怒ったが、長男は「これは陳寿の諸葛亮評だ。何の文句があろうか」と言った(世説新語)。 隋における第一の儒者の王通は「諸葛亮が死ななければ、さらに礼楽(礼節と音楽のこと、儒教の根本的規範)は興隆したであろう」と述べた。(『文中子』) 唐の宰相の裴度は「君に仕える節度、国を開く才能、立身の方法、人を治める技術、この四条件を全てそなえ実践したのは孔明その人である」と称賛した。(『蜀丞相諸葛武侯祠堂碑文』) 杜甫:「伊尹や呂尚に伯仲し、天下がその指揮に服したならば蕭何や曹参も問題にならなかっただろう」(「詠懐古跡」)、また漢詩「蜀相」の中で、諸葛亮の生き様は後世の英雄たちに涙を流させたと評価した。 唐の文人の孫樵は「武侯(孔明)が死んでほとんど500年になろうとしているが、今に至るまで梁漢(蜀)の民はその事績を歌にうたい、廟に祭る者あるが如し。その民に愛されることかくの如く久しい」と『刻武侯碑陰』に書く。 北宋の神宗は王安石に対して「唐の太宗は魏徴を用い、劉備は諸葛亮を用いることにより様々な政策を実施することができた。この二人はまことに不世出の政治家である」と述べた。(『東都事略王安石伝』) 北宋の司馬光:諸葛亮が丞相の時、恩赦を惜しんで簡単には出さないと指摘された。それに対し「世を治めるには優れた徳で治めるのであり、小さな恩恵で治めるのではない」と答えた。(『資治通鑑』) 蘇軾:「強大な曹操に対して、自らの内の忠信の心のみをもって対抗した」(『東坡全集』前集巻43「諸葛亮論」)。劉璋が支配していた益州を奪ったことに関しては「劉璋を騙し討ちにし、荊州に連れ去った事で天下の声望を失った。これでは曹操と変わる所が無い。劉備と曹操では才能・兵力・領土に大きな差があり、忠信の心のみが勝っていた。(劉璋を騙し討ちにして)これを失ってから北伐の大義と唱えても上手く行くはずが無い」と述べている(前掲「諸葛亮論」)。これに対し、明の学者の王世貞は、劉璋を討つ事を劉備に勧めたのは諸葛亮ではなく龐統・法正である事、また劉焉は漢朝からの独立を企図した叛臣とみるべき存在であり、子たる劉璋を討つ事は正当化される事などを理由として反論している(『読書後』巻2「書蘇子瞻諸葛亮論後」)。 託克託:「岳飛の忠義の言、眞に諸葛孔明の風有るも卒に秦檜の手に死す」(『宋史岳飛伝』) 朱熹:「孟子以降の人物としては張良と諸葛亮がいるのみである」(『朱子語類』巻163・歴代3) 葉方藹:清の順治帝から「諸葛亮は伊尹と比べてどうだろうか」と質問され「伊尹は聖人ですから孔子と匹敵させるべきです。諸葛亮は大賢者ですから顔回と匹敵させるべきです」と答えた。(『清史稿葉方藹伝』) 清の康熙帝は劉備・劉禅に対する献身について「臣下たる者の中で、諸葛亮だけがこのようなことを成しえた」と述べた。(『大清聖祖仁皇帝実録』) 竹中重門:竹中重治が没した時「秀吉限りなく悲しみ、劉禅孔明を失いしにことならず」(『豊鑑』) 平田篤胤:「孔子以後は孔明がいるだけだ」(『西籍概論』) 木戸孝允:「楠木正成や諸葛亮のような有能な人材を登用すべきだ」(長州藩士に宛てた手紙)
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