明仁
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逸話
青年以降、皇太子時代
- 1953年(昭和28年)6月2日のエリザベス2世英国女王戴冠式への台臨のために同年3月30日から同年10月12日まで外遊、人生初の外国渡航。
- 出発の際には、皇居から横浜港まで、小旗を持った100万人もの国民の祝賀を受けたという。また、テレビ開局以来初の大規模イベントとなり、各放送局が実況中継した[78]。
- 大型客船プレジデント・ウィルソン号(アメリカン・プレジデント・ライン社所属、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した[79]。三島由紀夫も2年前に同船でハワイに向け出帆し世界旅行に出ている[80][注釈 10]。
- イギリスでは、第二次世界大戦で敵対国であった記憶はいまだ褪せておらず、1953年(昭和28年)6月2日のウェストミンスター寺院でのエリザベス2世の戴冠式[注釈 11] に参列した際は13番目の席次(前列中央の座席で、隣席はネパール王子)を与えられたが、エリザベス2世女王との対面まで長時間待機させられた。また女王は、日本の皇太子と握手は交わしたが視線は交わさなかった[78]。
- ただその4日後の6月6日のエプソム競馬場でのダービー観戦でエリザベス2世女王(当時:27歳、皇太子明仁親王は19歳)から彼女の隣席に誘われ、幾分か会話を重ねた。その中で、かつて戦間期(日本の大正年間)の日英同盟時代に女王の祖父ジョージ5世国王が、父親である昭和天皇の(その当時の明仁親王とほぼ同じ年頃に)皇太子時代での訪英の折に歓迎した話などを振り返り、第二次世界大戦で敵対し途絶えていた戦後においての日英両国での皇室王室間交流が再開したとされる。
- 半年にわたって外遊した結果、単位不足で進級できず留年を回避するため、学習院大学政治学科をやむなく中途退学し、その後は聴講生として大学に在籍し続けた。聴講生となって以降は例外なく皇族としての特権なども許容されず、クラブ活動にも原則として参加できなかった[81]。宮内庁は、学歴を「学習院大学教育ご修了」としている。なお学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に両国高校から現役進学した後の日本会議国会議員懇談会初代会長島村宜伸がいる。島村は1956年(昭和31年)3月に政治学士となり、39年5か月後の1995年(平成7年)8月に村山改造内閣で初入閣して文部大臣の認証を受けている。
- 1959年(昭和34年)4月10日の結婚の儀の記念切手では、4種のうち10円と30円で皇太子妃と一緒の肖像[注釈 12]が発行された。また切手は郵政省から皇室と正田家に「皇太子御成婚記念切手帖」が献上されている[注釈 13]。
- 皇太子時代の1960年(昭和35年)に、アメリカ合衆国イリノイ州のシカゴ市長により寄贈されたミシシッピ川水系原産のブルーギルを日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈した。これは当時の貧しい食糧事情を思ってのことであったが、国内で異常繁殖したブルーギルは在来種の水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系を破壊する結果となった。2007年(平成19年)、滋賀県大津市で開かれた全国豊かな海づくり大会で「外来魚の中のブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したものであり、当初、食用魚としての期待が大きく、養殖が開始されましたが、今、このような結果になったことに心を痛めています[82]」と異例の(自己批判を意味する)発言を行い、会場では驚きの声が上がった。この発言は本人の意向によりなされたもので、当初の原稿はより謝罪の色合いの強いものであったが、「ここまで謝罪する必要はないのでは」との地元からの意見もあり、式典前に改められていた[83]。
天皇時代
- 父の昭和天皇崩御にあたり、相続税4億2800万円を納めた[84]。また、皇居のある千代田区には住民税を納めている[84]。
- 1991年(平成3年)に雲仙普賢岳噴火の際には、被災地を見舞い、床に膝をついて直接被災者らと同じ姿勢で言葉を交わしたが、天皇が一般国民と対面して会話をする際に「床に膝をつく」という行為は史上初めてであった。これは美智子妃と夫妻ともに昭和期の皇太子時代から行っているものだったが、その後の被災地の見舞いでも続けられ、平成に入ってからは他の皇族もこれに倣っている。
- 2008年(平成20年)9月8日、新潟県中越地震の被災地を見舞うための行幸の折、被害が甚大であった被災当時の山古志村(現・長岡市山古志)を視察。その後、山古志の被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。また、中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ[85]。
- 2002年(平成14年)2月20日、チェロの師・清水勝雄が死去。その夜、皇后美智子のピアノ伴奏に合わせて演奏を行い、故人を偲んだ[86]。
- 2003年(平成15年)3月19日、「日本化学会創立125周年記念式典」に皇后美智子、常陸宮正仁親王と共に出席した[87]。
- 2005年(平成17年)6月28日、サイパン島訪問の際には当初の予定に含まれていなかった「韓国・朝鮮人慰霊碑(追悼平和塔)」に皇后美智子を同伴で立ち寄った。これは天皇の配慮だったとされている[88]。
- 2008年(平成20年)11月8日、先代の昭和天皇同様、「慶應義塾大学創立150周年記念式典」に皇后美智子と共に夫妻で出席し「おことば」を述べた[89]。
- 2011年(平成23年)3月11日発生の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)については前述のように、異例の「ビデオメッセージ」を全日本国民向けに送ったほか、各地の避難所を皇后美智子と共に巡幸啓している[90]。
- 2013年(平成25年)4月15日、即位後初めて定例の静養や公的行事ではない1泊2日の私的旅行として皇后美智子と共に長野県千曲市にある「あんずの里」に行幸啓した[92]。同年7月には福島県に行幸した。その後、年2回程度私的旅行が行われている。2014年(平成26年)5月には栃木県渡良瀬遊水地など、同年9月には青森県八戸市、2015年(平成27年)6月には宮城県刈田郡蔵王町の北原尾[93]、同年7月には福島県の復興公営住宅、2016年(平成28年)11月には愛知県入鹿池[94][95]、2017年(平成29年)9月には埼玉県日高市の高麗神社、渋沢栄一生地などを巡幸している[96]。
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2005年(平成17年)12月23日、東京都千代田区・皇居での天皇誕生日一般参賀にて
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2010年(平成22年)1月2日、東京都千代田区・皇居における、国民への新年一般参賀での「お言葉」
人物に関するもの
- 高校生時代のエピソードとして、銀ブラ事件が有名である。学習院高等科3年の試験が終わった日、学友の橋本明、千家崇彦と3人で周囲の目を盗んで、東京・銀座の町をぶらついた。高級喫茶店「花馬車」で橋本の交際関係であった女性と合流し、皆で所持金を出し合い、一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンバン」でアップルパイと紅茶を楽しんだが、ほどなく発見される。連れ出した学友は、警察と皇室関係者に叱責されたという。
- 上述の銀ブラをはじめとする高等科時代のエピソードを基に、同級生だった藤島泰輔が皇太子に捧げて書いた[97]小説が『孤獨の人』(1956年)である。同作は発売前からマスコミに取り上げられ、映画化もされた。一方、戦後の日本において、若く清新な「新生日本」にふさわしいともてはやされた皇太子の実像が、学友たちの権力争いの道具となり宮内庁職員らの窮屈な支配に諦めを抱く存在として描かれたことで、その人気は結婚によるミッチー・ブームが起こるまで陰りを見せた。背景には逆コースと呼ばれた民主化に逆行する風潮への批判があり、日本社会党は国会でこの小説を取り上げ、宮内庁への批判を展開した[98]。
- 経済学者の関根友彦元ヨーク大学教授は学習院初等科からの同級生で、特に中等科時代に親しく交流したという[99][100]。
- 靖国神社には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は親拝していない。一方で靖国神社の元宮司である南部利昭には、宮司就任前に「靖国のこと、頼みます」と声をかけている[注釈 14]。
- 「お好きなテレビ番組は?」との質問については、「各局の競争が激しいので…」などと回答するのが普通である(これは父・昭和天皇も同様であった)。ただし、皇太子時代には好きなテレビ番組として『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)を挙げたことがある。他に即位後の園遊会で水木しげるに「『ゲゲゲの女房』を見ましたが、絵をかくのは大変そうですね」と声をかけた[101]。
- ドナルド・キーンは、桃山時代に日本に来た宣教師が「世界でもっともおいしいパンは、江戸で焼かれたものだ」と記録に残しているという話をしたときに、明仁から「それは、ヨーロッパにはない麦で焼いたから、おいしく感じたのではないですか」と予想外の答えを受け驚いたと語る。対談相手の工藤美代子は、日清製粉創業家の正田家出身の美智子のおかげではないかとしている[102]。
- 天皇即位式で、「ニホンコク憲法」と読み上げた(竹下登首相は「ニッポンコク憲法」と発音した)[103]。
- 皇居がある千代田区は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う計画停電の対象外地域であったが、「国民と困難を分かち合いたい」とする天皇の意向により、皇居は停電時間に合わせ電源を落とした[104]。計画停電の実施が終了した後も計画停電発表終了までこの「自主停電」を続けたという[105]。
- 2011年7月29日から8月10日、アメリカの調査会社GfKとAP通信が、日本全国の成人1000人を対象に電話で行った世論調査では、各国の元首や首脳についての設問で、天皇は「好き」を70%獲得し、オバマ米大統領(同41%)などを大きく抑えて1位であった[106]。
乗り物に関すること
- 1953年(昭和28年)、皇太子は葉山において学友の所有するアルファロメオ・1900を運転している。この車は、当時最先端の高性能車であった。このドライブでは、車の所有者の学友が助手席に座り、護衛または侍従が後部座席に収まり、皇太子が実際に運転している[107]。
- 2018年(平成30年)時点、プライベートで運転するのは1991年(平成3年)製のグレーメタリックのホンダ・インテグラ(DA7・4ドアハードトップRX前期型・MT)[108]。皇居内を移動する際に運転しており、現在は一般公道を走行することはないという[109]。法令に基づき、2007年(平成19年)以降3年ごとに高齢者講習を受講の上運転免許を更新していたが、2016年(平成18年)の更新を最後にした[110]。
- カナダ空軍のビクトリア基地において軍用機のコクピットに座ったこともあり、写真が残されている。またビクトリアからバンクーバーまではこの空軍機で移動した。同機の機長だったデーブ・アダムソン中佐とは2009年(平成21年)のカナダ訪問の際に再会し、「あなたのことはよく覚えています」と旧交を温めていた[111]。
日産自動車(主に旧プリンス自動車)とのかかわり
成婚前にはしばしば、成婚後もしばらくの間、愛車でドライブを楽しんでおり、国産車では1954年に献上されたプリンス自動車(現:日産自動車)のプリンス・セダン(後年、日産自動車に返還され現存)以降、 天皇に即位後に乗り換えたホンダ・インテグラまで、通算9台のプリンス車を用いた。その中にはプリンスの試作1900ccエンジンを先行搭載した初代スカイラインや、高級車「グランド・グロリア」の後席スペースを100mm延長した特注車も含まれていた。なおこのグロリアのストレッチ仕様車は、標準車のスペースでは「私はよいのですが美智子が…」という皇太子妃への気配りにより特別生産された[112]。
- その他、プリンスが納入した公用車については、同様に妃への気配りから「サイドシル(車体側面・ドア部分の敷居)をもっと低くできないか」(乗り降りをしやすくするため)という質問も出している。プリンス側では、後席シート座面を低く下げ、天井内張りの厚みを薄くすることで乗り降りのしやすさを改善した[112]。
発言
- 「さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。このときに当たり、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします」
- 「日本国憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です」
- 「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」
- 2001年(平成13年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて[115]。
- この発言は内外の興味を強く引き、韓国においても大々的に報道された。桓武天皇#天皇明仁の発言も参照。
- 「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」
- 「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」
- 「皇太子の記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました」- 人格否定発言を受けて
- 2004年(平成16年)、誕生日に際する文書回答より[117]。
- 「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います」
- 「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、(中略)私の皇室に対する考え方は、天皇および皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです」
- 以上、2005年(平成17年)12月19日、誕生日に際する記者会見にて[118]。
- 「これからの日本の教育の在り方については関係者が十分に議論を尽くして、日本の人々が自分の国と自分の国の人々を大切にしながら世界の国の人々の幸せに心を寄せていくように育っていくことを願っています。戦前のような状況になるのではないかということですが、戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、総理または総理経験者4人(濱口雄幸、犬養毅、高橋是清、斎藤実)が亡くなり、さらに総理1人(岡田啓介)がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています。」- 在日外国報道協会代表質問「教育基本法改正に伴い愛国心の表現を盛り込むことが、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」に対して。
- 「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです。(中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています」
- 2006年(平成18年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて[120]。
- 「皇太子妃が病気の今、家族が皆で、支えていくのは当然のことです。私も、皇后も、将来重い立場に立つ皇太子、皇太子妃の健康を願いつつ、2人の力になっていきたいと願っています」
- 2008年(平成20年)12月23日、誕生日に際する文書回答にて[121]。
- 「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」
- 「2人のそれぞれの在り方についての話し合いも含め、何でも2人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します。(中略)結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。」
- 以上、2009年(平成21年)4月8日、結婚満50年に際する記者会見にて[122]。
- 「今日の世界は決して平和な状態ではあるとはいえません。明るい面として考えられるのは、世界がより透明化し、多くの人々が事実関係が共有できるようになったことです。拉致の問題も、それが行われた当時は今と違って、日本人皆が拉致を事実として認識することはありませんでした。このため拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念でした。それぞれの家族の苦しみはいかばかりであったかと思います」
- 「皇位継承の制度にかかわることについては、国会の論議にゆだねるべきであると思いますが、将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と思います。2人は長年私と共に過ごしており、私を支えてくれました。天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています」
- 以上、2009年(平成21年)11月11日、即位20年に際する記者会見にて[123]。
- 「(公務の)負担の軽減は、公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので、十分に考えてしなくてはいけません。今のところしばらくはこのままでいきたいと考えています。私が病気になったときには、昨年のように皇太子と秋篠宮が代わりを務めてくれますから、その点は何も心配はなく、心強く思っています」
- 2012年(平成24年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて[124]。
- 「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」
- 「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています」
- 以上、2013年(平成25年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて[125]
- 「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
- 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります」
- 2016年(平成28年)8月8日、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」にて[126]。
- 「明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います」
- 2018年(平成30年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて[127]
- 「今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました。ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。即位から30年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」
注釈
- ^ 元号を改める政令(昭和64年政令第1号)は翌1月8日より施行。
- ^ 代数は皇統譜による。
- ^ 2男5女のうち第5子
- ^ 天皇の譲位は1817年 (文化14年)の光格天皇以来202年ぶり、一世一元の制となった明治以降初めて。
- ^ 8人10代にわたり実在した女性天皇(女帝)の一人で、推古天皇に次ぐ2人目の女性天皇。
- ^ 後者は2006年7月21日、DVDが発売されている(ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントより、定価5250円)。開会式で宣言を読み上げる姿はテレビ中継もされ(7月19日、NHK総合テレビ)、後年ドキュメンタリー番組にもそのまま使用された(『映像でつづる復帰30周年』)
- ^ 即位当時は歴代2位。次代の徳仁が59歳で即位したため歴代3位となった。
- ^ 江戸時代後期にあたる1817年5月7日(旧暦:文化14年3月22日)の光格天皇から仁孝天皇への譲位以来、天皇譲位は例がなかった
- ^ 1953年(昭和28年)3月30日から同年10月12日までの外遊における立ち寄り地は、アメリカ合衆国・カナダ・フランス・スペイン・モナコ・イタリア・バチカン・ベルギー・オランダ・ドイツ連邦共和国(西ドイツ)・デンマーク・ノルウェー・スウェーデン・スイスの14か国。
- ^ 学習院の先輩であった三島は、皇太子外遊にあたり「愉しき御航海を――皇太子殿下へ」を書き、同船についても触れている[79]。
- ^ エリザベス2世としてイギリス女王に即位したのは、前年の1952年2月6日。その年の4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効され、日本は独立回復してイギリスとの国交も正常化した。
- ^ 『郵趣』2009年4月号によれば、宮内庁から服装の変更申し出により、原案から皇太子は背広からモーニング、皇太子妃は洋装から和服に変更されている。
- ^ 実物と同様の物品が逓信総合博物館で所蔵されている。
- ^ 『週刊朝日』2004年12月3日。ただし、南部は「どうやら、久邇さまが陛下にお願いしていたようです」と『週刊朝日』に述べており、天皇の発言は南部を宮司に推挙した久邇邦昭(天皇の従兄)からの依頼によるものとしている。
- ^ a b 2023年(令和5年)1月1日現在。
出典
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