WRCの絶対王者とは? わかりやすく解説

WRCの絶対王者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 19:04 UTC 版)

セバスチャン・ローブ」の記事における「WRCの絶対王者」の解説

少年時代体操選手目指していたという異色の経歴持ち主で、国内選手権で5位になったこともあるが、年齢的にピークとなる時期オリンピック合わないので体操競技断念したと後に語っている。チャンピオン決めた時など節目節目バック宙パフォーマンスをみせる。 ラリーデビューは1997年1998年からサクソトロフィーに参加して1999年にはタイトル獲得シトロエン・スポールのギ・フレクランに見出され2001年にはWRCスーパー1600選手権で5勝してこれを制覇する一方シトロエン・クサラ WRCスポット参戦したWRCサンレモでは,トップジル・パニッツィから11.4秒差の2位獲得した2002年にはクサラWRC駆って9戦に参戦開幕戦モンテカルロでいきなりトップフィニッシュをするが、チームタイヤ交換禁止サービスタイヤ交換したことが発覚ペナルティを受け2位となり、初優勝は幻となる。それでも、同年のラリー・ドイツでWRC初優勝を飾る。 2003年には、開幕戦モンテカルロ前年雪辱を果たす優勝上げ一躍タイトル争い加わりシーズン3勝を上げる。しかし第13戦カタルーニャでは終盤まで首位守りながら,タイヤ選択ミス最終ステージ31秒差を逆転され2位に終わる。最終戦ラリーGBではマニファクチャラーズタイトルを優先するチーム事情から限界まで攻められず、ペター・ソルベルグ逆転許し、1ポイント差でドライバーズチャンピオン逃した2004年にはディディエ・オリオールが持つシーズン最多勝記録タイとなる6勝を上げ一方安定した走り着実にポイント獲得し、ソルベルグ以下を大きく引き離し自身初となるドライバーズチャンピオン獲得したフランス人WRCチャンピオンオリオール以来2人目。 2005年は、当シーズン限りWRCからの一時撤退明らかにされていたチーム事情からマシン開発の停滞戦闘力低下懸念されたものの、シーズン開幕すると,リピートステージでの走行重点置いて開発されミシュランのニューグラベルタイヤが威力発揮し、得意のターマックだけでなくグラベルでも他チームドライバー圧倒新記録となる6連勝含めシーズン最多勝記録塗り替える10勝を上げ2年連続ドライバーズチャンピオン輝いた地元フランスで行われた14ツール・ド・コルスではWRC史上初め全てのスペシャル・ステージでトップタイムをマークする「完全優勝」果たした2006年は、シトロエンワークス活動休止したが、プライベーターのクロノスチームから引続きクサラ参戦苦戦予想されたが、第9戦ドイツでは史上初の同一イベント5連勝達成し第11戦日本においてカルロス・サインツの持つ通算勝利記録26更新する27勝目達成した第12戦キプロス勝利しチャンピオン王手をかけた2日後マウンテンバイク乗車中に転倒し右上腕を骨折残り4戦の出場断念しタイトル防衛危ぶまれた。しかし、第14オーストラリアにおいて、ドライバーズランキング2位マーカス・グロンホルムが5位に終わったことで2006年シーズンドライバーズチャンピオン決定した。この時、ローブ自宅からインターネット中継で「不思議な気分だ」と語った2007年は、シトロエンワークスが新型マシンシトロエン・C4 WRC復帰第11戦ニュージーランドでは、グロンホルムと最終ステージスーパーSSまで決着がもつれ込み、0.3秒差で優勝逃した。グロンホルムの日本アイルランドでの2戦連続リタイアもあり、最終戦ラリーGBトミ・マキネン以来史上二人目となる4年連続チャンピオン獲得した2008年は、フォードミッコ・ヒルボネン激しチャンピオン争い繰り広げたが、全15戦中11勝を記録し自身持っていたシーズン最多勝記録更新。第14日本史上初の5年連続チャンピオン獲得した2009年も、フォードのヒルボネンとのチャンピオン争いは大接戦となった。1ポイントリード許して迎えた最終戦ラリーGBローブ優勝して逆に1ポイント差をつけて6年連続チャンピオン獲得した2010年は、次世代若手選手挑戦受けたが、フォードヤリ=マティ・ラトバラシーズン後半のグラベルチームメイトとなったセバスチャン・オジェ引き離し地元アルザス地方での初開催となった第11戦フランスで7年連続チャンピオン達成した2011年は、新WRカー規定開発されシトロエン・DS3 WRC参戦この年フォードのヒルボネンとチームメイトとなったオジェの急成長により、タイトル争いはさらに接戦となったアクロポリスでのオジェの優勝によってチーム内の関係が悪化したが、ローブシトロエン上層部2年契約延長を結び、チーム絶対的No.1返り咲いたシーズン後半はヒルボネンに8ポイント差まで迫られたが、最終戦ラリーGBでヒルボネンが先にリタイアしたため、8年連続ドライバーズチャンピオン決定した2012年は、チーム去ったオジェに代わって加入したヒルボネンのサポート受けた9月27日パリモーターショー行われた記者会見席上で、2013年引き続きシトロエンチームには留まるものの、モンテカルロなど一部イベントのみ出場する方針発表され事実上WRC一線から退くことが明らかになった。第11戦フランスにて9年連続の、自身最後となるドライバーズチャンピオン獲得した2013年開幕戦モンテカルロ、第2戦スウェーデン、第5戦アルゼンチン第11戦フランスのみ出場フォルクスワーゲンエースとなったオジェと最後の「セバスチャン対決」を演じモンテカルロアルゼンチン優勝して通算勝利回数78勝に達したWRC引退の場として選んだ地元フランスでは最終日横転事故起こしてリタイア生地アグノーでのステージ迎える前の幕切れとなったが、ラリー終了後には偉大な英雄讃えるセレモニーが行なわれた。 WTCC転向後の2015年モンテカルロシトロエンからスポット参戦し2年ぶりのWRC復帰を果たす。序盤からトップキープするが、DAY2 SS8にて左リアヒットし破損SS完走するも、規定時間内にサービスへ戻ることが出来なかった為、DAYリタイアとなり順位落としラリー2規定にてDAY3に復帰し最終的に8位でフィニッシュした。 2017年シトロエン・C3 WRCのプライベートテストに参加し2018年シトロエンからWRC3戦にスポット参戦することが決定した3年ぶりのWRC出場となったメキシコではパンク後退するまで一時総合首位走行。3戦目のスペインでは最終日タイヤ選択的中してトップ浮上し2013年アルゼンチン以来5年半ぶりとなるWRC通算79勝目記録した2019年スポット参戦が囁かれたが、2018年シーズン終了後メインスポンサーアブダビスポンサー降りたため、一転シトロエンからの参戦困難になった。また同年主戦場であったラリーレイドラリークロスからもプジョー撤退したことにより、PSAでの居場所事実上無くなった2018年12月韓国ヒュンダイとのパートタイム参戦契約を結び、17年間に渡るPSAとの蜜月日々別れ告げたこの年シトロエン時代のチームメイトダニ・ソルドとシート共有し6戦に参戦固定ナンバー導入で「19」を選択した。第6戦チリではオジェと激し2位争い繰り広げたが、僅差敗れ3位となった第13戦スペイン初日首位立ったが、その後ペース上がらず4位に終わった2020年引き続きヒュンダイから6戦に参戦前年固定ナンバーは「19」だったが、この年から自身チャンピオン獲得数である「9」に変更した。第5戦トルコではステージ勝利1つのみだったが、表彰台立った。そして、エクストリームE参戦するためにチーム離れることになった2022年Mスポーツ・フォードからプーマ・ラリー1でスポット参戦コドライバー長年友人普段数学教師女性であるイザベラ・ガルミッシュへと交代固定ナンバーは再び「9」から「19」に変更した同じくスポット参戦切り替えたばかりのオジェとモンテカルロで、1週間前にダカール走りきったばかりの身でデッドヒート繰り広げた末、47歳通算80勝目という金字塔打ち立てた。また自身初のシトロエン以外のマニュファクチャラーでの勝利となった

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