WRC引退
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2003年はシーズン開幕直前まで所属チームが決定しなかったが、ギリギリでシトロエンとの契約に漕ぎ着ける。この時1988年以来コドライバーを務めてきたルイス・モヤは「無報酬に近いギャラでは家族を養えない」とコンビ解消を表明し、現役を引退。同郷出身のドライバー、ヘサス・ピュラスの相棒だったマルク・マルティと組む。2003年シーズンは、この年から初開催となるトルコで勝利。スピードでまさる若手を相手にベテランの力をみせ、チームメイトのセバスチャン・ローブ、スバルのペター・ソルベルグらとチャンピオン争いをした。ローブと同ポイント首位で迎えた最終戦グレートブリテンでは、車載カメラが故障し煙が出るというトラブルに見舞われ、集中力を乱されコースオフしリタイアに終わった。 2004年シーズンもシトロエンで走り、アルゼンチンで現役最後の26勝目を飾る。地元カタルーニャの直前にWRC引退を発表し、同年のオーストラリアが最終戦となるはずだったが、レッキ中に起こしたコースアウトで首を負傷し、ラリーを欠場した。これでサインツのキャリアは終わるものと思われていた。 その後は、2005年のポルトガルでかつての相棒ルイス・モヤとゼロカーを走らせたりしていたが、サインツのあとにシトロエン入りしたフランソワ・デュバルの成績不振のため、メイクスタイトル獲得めざすシトロエンは彼を再び招聘した。7ヶ月ぶりに復帰したトルコでは熟練した走りは健在で、4位入賞を獲得した。続くアクロポリスでは3位表彰台を獲得し、チームから課された仕事をやり遂げた。アクロポリス終了後、サインツは「もうWRCに戻ることは絶対にない」というコメントを残し、再びWRCを去った。
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