WRC草創期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:37 UTC 版)
1973年のWRC創設から1980年代初頭までは「連続する12ヶ月間で1000台以上」の生産義務があるツーリングカーのグループ2と、「連続する12ヶ月で500台」のグランドツーリングカーのグループ4規定で競技が行われた。ただしグループ2は「連続する12ヶ月で生産台数5,000台」のグループ1、グループ4は「連続する12ヶ月で1,000台」のグループ3の公認もそれぞれ取得することが前提であった。各メーカーは市販車を強化した特別仕様車であるホモロゲーションモデルを販売し、その車両をベースにグループ2・グループ4の競技用車両を開発していた。 目敏いランチアはグループ3のパワートレインだけを抜き取ったような、ミッドシップのグループ4マシン・ストラトスを生産し、WRCを席巻。マニュファクチャラーズ選手権を3連覇した。しかしあまりに市販車と乖離していることから宣伝にならないと親会社のフィアットが難色を示し、ランチアの代わりにフィアット(アバルト)が前面に出ることとなった。ここにフォード、オペル、タルボなどが絡む形となっていった。 この頃のラリーカーはほとんどが2WDであったが、1981年にフルタイム4WDとターボエンジンを採用したアウディ・クワトロが登場してラリーを席巻し、その後のラリーカーの方向性を決定づけた。その後グループ1 - 8規定を廃止し、1983年から新規定に移行することが発表された。1982年は新旧両規定に基づいた車両が使える移行期間であった。
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