WRCでの成果
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「フォード・エスコートWRC」の記事における「WRCでの成果」の解説
デビューは1997年のモンテカルロ。1996年オフシーズンのテスト不足によってセットアップが決まらず、前半は苦戦するも、カタルニア以後は1997年シーズンのエースドライバーであったカルロス・サインツによる精力的なテストとチームの努力の結果、サスペンション・ジオメトリーの見直しによってトラクションは大幅に向上した。チームメイトのアルミン・シュヴァルツは成績不振のため、アルゼンチンでユハ・カンクネンと交代させられた。 ツール・ド・コルスではサインツがスバルのコリン・マクレーに7秒差の2位に入賞。そして、1997年WRCの前半戦最後のアクロポリスでは、サインツがカンクネンと共にWRC初勝利を1-2フィニッシュで達成すると、続く後半3戦目のインドネシアでもサインツ、カンクネンが1-2フィニッシュを挙げた。しかし、予算不足からライバルと比較して大々的なテストが行えず、低中速コースの多いヨーロッパのスプリントラリーでは、スバル、三菱に対してパワー不足は顕著で、後半戦ニュージーランドから投入した新スペックエンジンも起爆剤とはならなかった。この年のマニュファクチャラーズランキングはスバルに次ぐ2位。 1998年は次期マシンの準備のため開発がストップしていたが、熟成されたシャシー性能を生かし、サインツに代わってエースドライバーとなったカンクネンがモンテカルロ2位、アルゼンチン、アクロポリス、ハイスピードラリーで有名なフィンランドで3位に入賞している。その後、1998年WRC最終戦、ラリー・オブ・グレートブリテンで2位、3位に入賞した後、2年間のワークスマシンとしての役目を終えた。後継として翌年からフォード・フォーカスWRCが参戦した。
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WRCでの成果
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「フォード・エスコートRSコスワース」の記事における「WRCでの成果」の解説
世界ラリー選手権(WRC)においては、デビューイヤーの1993年は舗装路、未舗装路でも安定した成績を残し、特に舗装路では速さを見せたものの、翌1994年以降は目まぐるしく変わるチーム運営と開発力の低下も影響し、1996年までの参戦期間の中に7勝を挙げるに留まった。 特にチーフエンジニアがジョン・ウィラーからフィリップ・ドゥナビンに変わって以降では、ドライバーが希望したセットアップで走れない事態が多々発生し、お役所体質と呼ばれたフォード・モータースポーツチーム(通称:ボアハム)は、マシン開発の停滞を招いた。ランチアから移籍してきたミキ・ビアシオンや、スバルから移籍してきたカルロス・サインツらに、そうした運営を批判されている。 その一方で、このマシンが低迷の80年代から再びWRCのトップ争いをするまでにフォードを回復させたことも事実であり、 ワークスに限らずプライベーターにも多数使用されている。特に1993年のラリー・サンレモでは、ワークス勢が全滅の中、イタリア人ドライバー、ジャン・フランコ・クニコが、2017年Mスポーツが破るまで長らくWRC最後と思われていた純プライベーターによる勝利を記録している。その他にもスポット起用ではあるが、1994年1000湖ラリーにおけるトミ・マキネンの勝利や、1995年のツール・ド・コルスでは、ブルーノ・ティリーが最終レグのトラブルまでトップを走るなどの活躍を見せた。 ウィキメディア・コモンズには、フォード・エスコートRSコスワースに関連するカテゴリがあります。 表 話 編 歴 ポータル 自動車 / プロジェクト 乗用車 / プロジェクト 自動車 自動車メーカー・ブランド 自動車の車種 - 自動車の車種名一覧 自動車の歴史 モータースポーツ 自動車画像 自動車関連のスタブ項目
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