23歳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/09 04:14 UTC 版)
『23歳』 | ||||
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KAN の スタジオ・アルバム | ||||
リリース | ||||
ジャンル | J-POP | |||
時間 | ||||
レーベル | zetima/UP-FRONT WORKS | |||
プロデュース | KAN | |||
チャート最高順位 | ||||
KAN アルバム 年表 | ||||
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EANコード | ||||
EAN 4942463759858 (EPCE-7598/9) |
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『23歳』収録のシングル | ||||
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リリック・ビデオ | ||||
『エキストラ』Lyrics Video - YouTube |
『23歳』(にじゅうさんさい)は、2020年11月25日にアップフロントワークス(zetimaレーベル)から発売されたKAN17作目のオリジナル・アルバム[2]。KANの遺作である。
概要
CD+DVDの2枚組となっており、DVDに本作のレコーディング・ドキュメンタリーを収録。
新作は『6×9=53』以来、約5年ぶりとなる。CD発売と同時にダウンロードも開始された[3]。
アルバムのコンセプトは「10曲10ジャンルのノン・フェイドアウト・アルバム」[2]。
『エキストラ』は、リリック・ビデオが制作されており、KANの公式YouTubeチャンネルで公開されている。
収録曲
CD
全作詞・作曲: KAN(except:5,7)、全編曲: KAN(except:5)。 | ||
# | タイトル | 時間 |
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1. | 「る~る~る~」 | |
2. | 「23歳」 | |
3. | 「ふたり」 | |
4. | 「君のマスクをはずしたい」 | |
5. | 「キセキ」(作詞・作曲・編曲: KAN+) | |
6. | 「メモトキレナガール」 | |
7. | 「コタツ」(作詞・作曲: ヨースケ@HOME・KAN) | |
8. | 「ほっぺたにオリオン」 | |
9. | 「ポップミュージック」 | |
10. | 「エキストラ」 | |
合計時間:
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DVD
Recording Documentary『58歳』
# | タイトル | 時間 |
---|---|---|
1. | 「る~る~る~」 | |
2. | 「ポップミュージック」 | |
3. | 「ほっぺたにオリオン」 | |
4. | 「ふたり」 | |
5. | 「コタツ」(KAN+) | |
6. | 「キセキ」 | |
7. | 「メモトキレナガール」 | |
8. | 「君のマスクをはずしたい」 | |
9. | 「23歳」 | |
10. | 「エキストラ」 | |
合計時間:
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カバー
エキストラ
- 譜久村聖(2021年6月21日、配信限定シングル「エキストラ」 / 2025年4月23日、1stメジャーシングル「ロングラブレター/アニバーサリーはいらない」初回生産限定盤SPアディショナルトラック)
外部リンク
- 公式サイト
- 【23歳】【LIVE SUMMIT G7】【ポップミュージック】 - KAN オフィシャルウェブサイト
- 23歳 KAN - UP-FRONT WORKS
- リリック・ビデオ
- KAN『エキストラ』Lyrics Video - YouTube
- 歌詞
- 「る〜る〜る〜」 - 歌ネット
- 「23歳」 - 歌ネット
- 「ふたり」 - 歌ネット
- 「君のマスクをはずしたい」 - 歌ネット
- 「キセキ」 - 歌ネット
- 「メモトキレナガール」 - 歌ネット
- 「コタツ」 - 歌ネット
- 「ほっぺたにオリオン」 - 歌ネット
- 「ポップミュージック」 - 歌ネット
- 「エキストラ」 - 歌ネット
- インタビュー
脚注
出典
- ^ “23歳 | KAN”. ORICON NEWS. 2021年6月20日閲覧。
- ^ a b “KAN「23歳」インタビュー”. 音楽ナタリー (2020年12月17日). 2021年11月25日閲覧。
- ^ “KAN新作アルバム「23歳」配信スタート!”. J.P ROOM (2020年11月25日). 2021年11月25日閲覧。
2-3歳(2003-2004年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 06:34 UTC 版)
「ダイワメジャー」の記事における「2-3歳(2003-2004年)」の解説
秋になり、姉のダイワルージュも手がけた上原博之厩舎に入厩。厩舎でも力の強さと神経質さでスタッフを振り回したが、非常な大器であるという点で関係者の見解は一致していた。 2003年12月28日、中山開催の新馬戦で菊沢隆徳を鞍上にデビュー。当日の装鞍所では上原が「あんなに暴れる馬を見たのははじめて」といい、競馬会から出走取消を打診されたほど激しく暴れ、さらにはじめて衆目の前に出た競走前のパドックでは、地面に腹這いになってしまうという珍しい姿をみせた。本馬場入場後にも腰を下ろそうとする仕草を繰り返したことからウォーミングアップもできず、そのまま発走となる。スタートでは出遅れて後方からのレース運びとなったが、向正面から進出を開始し、勝ったモンスターロードからクビ差の2着に入った。なお、上原はパドックでの様子について「パニックの一種だと思う。脚を蹴り上げて騒ぐのもパニックなら寝てしまおうというのもパニック。どうしていいか、自分でも分からなくなってしまったのだろう。それにここまで暴れすぎて疲れてしまった。そして、ヘナヘナと腰を下ろしたくなった。そんなところだろう」と語っている。馬主の大城敬三はダイワメジャーの性格的な部分を一切知らされておらず、パドックで寝た姿を見て非常に驚いたという。 翌2004年1月17日に中山・ダート1800メートルの未勝利戦で2戦目を迎える。落ち着かせるために調教助手の飯田直毅が装鞍所からパドックまで跨がり続け、鞍上の菊沢隆徳に交代してからは前走とは異なり返し馬(待機所への移動を兼ねたウォーミングアップ)もこなすことができた。レースは最後の直線だけで後続に9馬身の差を付け、初勝利を挙げた。走破タイム1分56秒4は、前週に同条件で行われた古馬(4歳以上馬)1000万下条件戦のタイムを0秒2上回る優秀なものだった。 次戦には自己条件戦のカトレア賞に登録したが除外となり、やむなく初勝利時と同じダート1800メートルの条件戦に出走したが、当日は単勝オッズ1.4倍の人気を裏切り4着と敗れる。クラシック三冠初戦・皐月賞への出走権確保のため、3月21日にはスプリングステークス(皐月賞トライアル)で重賞に初出走。当日は16頭立て11番人気の評価で、レースではコーナリングが不安定な様子も見せたが、先行策から3着に粘り、皐月賞への優先出走権を得た。これ以前に厩舎では、知らない場所に行くと興奮するダイワメジャーの性格を矯正しようと様々な試行錯誤を重ね、さらに「怪我をさせてはいけない」と従来控えめに行っていた調教を厳しいものに変えていたが、ダイワメジャーは厳しい調教で却ってストレスを発散させ、精神状態がよくなる様子がみられたという。 4月18日の牡馬クラシック初戦・皐月賞では、社台ファーム代表の吉田照哉の進言で、騎手はそれまで騎乗した菊沢隆徳からイタリア人騎手のミルコ・デムーロに替わった。当日は五十嵐冬樹を鞍上に据えるホッカイドウ競馬のコスモバルク、スプリングステークスの勝利馬ブラックタイドが人気を分けあうなか、ダートで1勝という実績のダイワメジャーは10番人気であった。 スタートが切られるとダイワメジャーはメイショウボーラーに続く2番手につける。前半1000メートル通過は過去10年で3番目に早い59秒7というタイムで進むなか、ダイワメジャーは最終コーナーでメイショウボーラーに代わり先頭に立つ。最後の直線ではそのまま逃げ粘り、追いすがるコスモバルクに1馬身4分の1差を付けての優勝。母スカーレットブーケ、姉ダイワルージュが果たせなかったクラシック制覇を遂げた。調教師の上原、馬主の大城にとっても、これが初めてのGI制覇であった。走破タイム1分58秒6はコースレコードに0秒1差という好内容であり、また1勝馬の皐月賞制覇は1950年のクモノハナ以来、実に54年ぶり6頭目の記録であった。 上原は「今日は落ち着いていたし、この馬にとって良いペースだったので、安心して見ていられた」「子供っぽい面はまだあるが、覚えてしまえば上手な競馬をしてくれる。ダービーが楽しみになった」と、クラシック二冠目・東京優駿(日本ダービー)への期待を口にした。鞍上のデムーロにとっては前年のネオユニヴァースに続く皐月賞連覇であったが、競走後には「ネオユニヴァースと同じくらい力があると思う」と語り、同馬が達成したクラシック二冠について「頑張ってもらいたい」と述べた。馬主生活30数年というキャリアの末にGIタイトルを手にした大城は、「ゴールに入った瞬間は、ちょっと恥ずかしくて言えない」という状態だったという一方で、2着コスモバルクの騎手がダイワメジャーを矯正した五十嵐冬樹だったことに、「五十嵐騎手は複雑な気持ちだったと思う」とも述べた。 5月30日、クラシック二冠が懸かる日本ダービーへ出走。ダイワメジャーには皐月賞から400メートル延びる2400メートルという距離についての不安が囁かれ、当日の人気では皐月賞に出走せずNHKマイルカップ(GI)を5馬身差・レースレコードで圧勝したキングカメハメハ、コスモバルク、青葉賞(GII)の勝利馬ハイアーゲームに次ぐ4番人気となった。スタートが切られると、1000メートル通過57秒6というハイペースを5番手で追走、最後の直線では3番手を追走していたコスモバルクともども伸びを欠き、レコードタイムで優勝したキングカメハメハの6着に終わった。 ダービーのあとは故郷・社台ファームで夏を過ごし、秋は三冠最終戦の菊花賞ではなく古馬相手となる天皇賞(秋)を目標とすることが決まる。9月26日、柴田善臣を鞍上にオールカマー(GII)で復帰し、同じくここから始動したダービー3着のハイアーゲームに次ぐ2番人気の支持を受ける。しかしレースでは2番手追走から最後の直線で失速し、最下位9着と敗れる。10月31日に迎えた天皇賞(秋)では12番人気と評価を落とし、結果も勝ったゼンノロブロイから4秒離された2戦連続の最下位17着に敗れた。 ダイワメジャーには皐月賞の頃から呼吸器の筋肉が麻痺し、気道が狭まり走行中の呼吸に支障を来す喘鳴症の兆候が出ており、この頃にはそれがすっかり悪化していたのであった。喉から独特の呼吸音がすることから、俗に「ノド鳴り」とも呼ばれるこの疾病は、かつて兄・スリリングサンデーも発症し、古くはタニノムーティエ、近い年代ではゴールドアリュールといった一流馬が引退に追い込まれていた。獣医師の所見では、その病状は「5段階で4から5」「正常時の60パーセントから70パーセントしか空気が入っていかない」という重いものであり、上原は引退も視野に入れていた。しかし大城、吉田とも協議の上で治療が試みられることになり、11月19日、社台ホースクリニックで手術が行われた。手術自体はさして難しくないものの、競走能力が戻る例は1~2割とされ、その見通しは「治る可能性は低いが、やれるだけのことはやってみよう」という程度のものであった。
※この「2-3歳(2003-2004年)」の解説は、「ダイワメジャー」の解説の一部です。
「2-3歳(2003-2004年)」を含む「ダイワメジャー」の記事については、「ダイワメジャー」の概要を参照ください。
「23歳」の例文・使い方・用例・文例
- 彼は23歳で処女作を出版した
- 23歳の誕生日おめでとう。
- これは私の23歳の誕生日に買ってもらいました。
- 私は19歳から23歳までその大学に通いました。
- 私は19歳から23歳までその大学に通った。
- 私は23歳までここで育ちました。
- 23歳
- 23歳の松坂投手は,プロ選手として6年目で年俸2億円に達した3人目の高卒の選手で,唯一の投手となった。
- 37年前に受賞したとき,彼は23歳と1か月だった。
- 大会は,これらの23歳以下の選手たちで,3月1日にアラブ首長国連邦で始まる。
- 3月18日,日本の23歳以下のサッカーチームがアラブ首長国連邦と対戦し,3―0で試合に勝ったのだ。
- 23歳の同横綱は,今年,1度の取組も負けていない。
- この事故で,23歳の列車運転士を含む107人が死亡,460人が負傷した。
- 23歳の新人であるパトリック選手は,200周中56周目に,インディ500でトップに立つ初めての女性となった。
- ある日,マゴリアムおじさんは,引退して,23歳の支配人モリー・マホーニー(ナタリー・ポートマン)に店を譲り渡すと発表する。
- ファーガソン監督はロナルド選手を賞賛し,「彼はまだ23歳。選手は26歳になったころに成熟し始める。彼はまだ始まったばかりだ。」と語った。
- 23歳のときに初めて単独で太平洋を横断航海して以来,堀江さんは単独無寄港世界一周航海やリサイクル素材でのヨット作り,ウエーブパワーボートでの航海など,長年にわたって多くの功績を残してきた。
- 錦(にし)織(こり)圭(けい)選手は23歳の米国人テニスプレーヤーのライアン・スウィーティング選手と決勝で対戦した。
- 3月14日,東京の国立競技場で,サッカーの23歳以下の日本代表チームがバーレーンを2-0で破り,今夏のロンドン五輪の出場権を手にした。
- 23歳の照ノ富士関はモンゴル出身だ。
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