23歳の脚本家デビュー
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「西條照太郎」の記事における「23歳の脚本家デビュー」の解説
1902年(明治35年)9月6日、静岡県に生まれる。 旧制・大成中学校(現在の大成高等学校)を中退後、運輸会社、保険会社勤務を経て、23歳になる1925年(大正14年)、帝国キネマ演芸(帝キネ)脚本部に入社するが、脚本家としてのデビュー作は、同年の東亜キネマ等持院撮影所への移籍直後の2月13日に公開された後藤秋声監督の『悪魔の哄笑』であった。同作をもって後藤は帝国キネマ小阪撮影所に移籍するが、西条は東亜キネマおよびそこから分離独立したマキノ・プロダクション御室撮影所への移籍後も、マキノにありながら、「帝キネ」の後藤に脚本をしばらく提供し続ける。 マキノ御室時代の代表作は、牧野省三が総監督、二川文太郎らが監督した月形龍之介・マキノ輝子主演ものの『修羅八荒』全4篇(1926年)、市川右太衛門主演から嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)へと途中でキャストチェンジをしながらも製作続行した『鳴門秘帖』全7篇(1928年 - 1927年)などである。また、牧野がすべてを投入して打ち込んだ超大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』(1927年製作開始、1928年公開)には、山上伊太郎との共同脚本を執筆している。また同年、映画監督としてのデビューの機会を持つが、第1回監督作品として製作を開始した『強者』は、その途中で降板、稲葉蛟児が完成させ、稲葉の監督デビュー作となった。以降、監督はしていない。
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