23歳〜88歳まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 09:38 UTC 版)
日本に帰国後、日本測量協会に入社し、数々の測量地を転々とした。更に彼の故郷の飯田市が飯田大火という、大規模な大火事に見舞われ、飯田市の復興と復興後の測量に尽力した。 飯田大火の測量が認められ日本政府は1977年のギニア国地図作成事業の団長に彼を任命。本島健三自身も100人の部下を率い、約10億円の予算でプロジェクトの遂行を開始した。このプロジェクトでは基準点を58ヶ所置いた、世界初の衛星航空システムを駆使して土地の高低・勾配を記す活動を行った。その間にアフリカの様々な国でエボラ出血熱が流行。彼の部下もアフリカの暑い摂氏やエボラ出血熱、吸血ハエなどに苦しめられ、プロジェクトを難化させた。更に1980年に本島健三にギニアに住む原住民に対して暴行を行ったなどの容疑でギニア警察に逮捕。一時は国外退去を命じられたが無罪が確定し、ギニア政府は彼に対して国外退去を取り下げた。また1981年にはプロジェクト本部が原因不明の火事により燃えて、本島健三も左足に火傷を負った。しかし1982年には無事プロジェクトが成功し、ギニアの基本地図が完成した。同年の1982年に本島はギニアの国土地理院も創設した。彼らの基本地図作成によりギニアは大きく発展。森を切り開き、川から用水路を引くことができるようになった。彼らに対しギニア初代大統領のセク・トゥーレ大統領は感謝の言葉を贈った。日本に帰国後、測量技師の仕事を辞め、NGOギニア会の初代会長に就任。1989年から始まったリベリア内戦によるギニアへ流れる難民を支援し、積極的な慈善活動を行った。2009年にNGOギニア会の会長を辞任した。また2011年には認知症を患い、治療活動を行っていたが、2014年1月30日に東京都千代田区の病院で心不全で亡くなった。享年88歳。
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