食道癌闘病と死去について
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「やしきたかじん」の記事における「食道癌闘病と死去について」の解説
2012年1月31日には公式ウェブサイトで、食道癌(早期のものと発表していたが、実際は進行していたという)治療のため芸能活動を休止することを発表した。 2012年1月30日に発覚したこの初期食道癌について、たかじんは「悪性やと思っていた。これまで好き勝手に生きてきて、これで良性やったら申し訳ない」として、落胆することはなくその日の夕食にも焼肉を平らげたという。翌31日には、芸能活動の休止を発表し、2月には東京の病院へ入院。ここでは、「サインが簡単だから」という理由で画数が少ない林一を名乗っていた。ここでは、抗がん剤治療を受けながら、4月9日には最新型の3D内視鏡を用いた切除手術を受けたものの、縫合不全があったため、再手術を受けることになった。しかしながら、これも1ヶ月で回復を果たし、最初の外出ではマクドナルドのハンバーガーのフィレオフィッシュを買って食べ、さらには「9月までは無理」と宣告されていた退院も6月に強行するなどしており、この回復の速さには主治医も驚きを隠せないといわれた。7月には自身の生活拠点の一つである北海道へ移住し、腸に直接栄養を補給するためにパイプを取り付けたものの、それをも自分で抜いてしまうなどしている。結局、9月には抗がん剤の副作用の影響で再び入院することになったものの、これも通常2週間の入院を一泊二日で切り上げている。これは、入院した翌日に札幌競馬場で競馬観戦に興じたかったからであるという。 その後、11月にはハワイの別荘に移動し、カラオケ20曲を熱唱したり、仲間3人とワイン10本を空けるなどしており、ここでも病気休業前の豪快さを誇示していた。なお、このハワイには例年同様、年明けまで滞在しており、ここでゴルフに興じた際には、偶然にも島田紳助と会った。たかじんがそこまで言って委員会で語った内容によれば、ゴルフコースで自分たちの前を回っている4人組に順番を替わってほしいと頼んだところ、その中に紳助もいたという事であり、「兄さん大丈夫ですか?」と紳助がたかじんの体調を気遣う発言をすると、紳助の引退問題に絡めて「それより、お前こそ大丈夫か」と切り返したということである。 芸能活動休止から1年2か月後の2013年3月21日『たかじん胸いっぱい』の収録より仕事復帰(2日後の23日に放送)。 しかし、2013年5月、「疲労による食欲不振や睡眠不足などによる体力低下」を理由に再び休養。以後、死去するまでにメディアに出演することはなかった。休養期間中の2013年10月に3人目の妻を迎えていたことが、2013年12月にマスコミ報道などで明らかにされている。 北野誠によると、たかじんは2013年12月31日、病室で『第64回NHK紅白歌合戦』を視聴していたという。北野は「最後までリモコンを離さず、出にくい声で『綾瀬はるか(紅組司会)、これどやねん?』と突っ込んでいた」とその様子を報告している。 2014年1月3日未明、東京都内の病院で心不全で死去した。死去の事実は、たかじんが生前に関係者や遙洋子に対して「みんながめでたい気持ちで迎えている正月に、自分の訃報で(関係者およびファンに)悲しい思いをさせたくない」との意向を示していたことを踏まえて、5日に密葬を済ませた後、日本時間7日23時に所属事務所のP.I.Sから公表。また遙には、7日の午前中に、3人目の妻より伝えられた。3人目の妻が「やしきがお茶したい」と、自宅に呼び出し、そこで伝えられた。独身の遙が、ニュースで先に知ることにならないようにするための配慮から別途伝えられることになった。享年65歳。 この時間帯に放送していた民放各局の全国ネットの報道番組が、速報扱いで訃報を伝えた。 訃報を受けて、たかじんと親交のあった多くの音楽・芸能関係者、さらには安倍晋三内閣総理大臣や橋下徹大阪市長(いずれも当時)をはじめとする政治家など、多くの各界著名人が追悼のコメントを発表した。遺作となった『その時の空』を作曲した小室は、たかじんの復帰に向けて、自身の曲・秋元の詞によるニューシングルの制作を準備していたことをtwitterで明かした。 生前に多数の冠番組およびレギュラー番組を放送してきた毎日放送では、訃報が伝えられた翌日(同月8日)に、毎日放送のラジオで追悼特別番組を急遽生放送。また、『たかじん胸いっぱい』『たかじんNOマネー』『たかじんのそこまで言って委員会』でも、相次いで追悼企画を収録・放送した。いずれの番組も、当面はたかじんの名を冠したままで放送を続ける方針を打ち出している。さらに、生前にたかじんのレギュラー番組を放送していた在阪民放テレビ5局が、同年春頃までに大阪で「やしきたかじんさん お別れの会」を共催する計画が浮上。3月3日には、たかじんと親交の深かった10人 と在阪民放局5社の各社長を発起人として、2部構成によるお別れの会「TAKAJIN MEMORIES 2014 あんたのことが ICHIZUに やっぱ好きやねん」をリーガロイヤルホテル大阪の「光琳の間」で開催した。同時期にたかじんの事務所の「P.I.S」とは別に「Office TAKAJIN」を3人目の妻が権利関係の事務所として設立している。 死後、たかじんが残したとされる膨大なメモや3人目の妻の看護日記と証言などを元に、百田尚樹が取材し執筆したノンフィクション本『殉愛』が2014年11月7日に幻冬舎から発行された。この本の出版を受け、たかじんと最初の妻の間に産まれた(当時)41歳の長女は11月21日に名誉毀損・プライバシー侵害で発行元の幻冬舎に対し、同書の出版差し止めと1100万円の損害賠償などを求める訴えを東京地裁に起こした。長女側は、裁判の中で「たかじんと長女の間に確執があったように書かれている、長女がたかじんに金銭を求め続ける一方でたかじんに冷たい態度を取り続けるなど非常識な人物であるかのように本の中で書かれている。」が、「これらは、事実に反する虚偽の記述である。ほかにも、身に覚えのないことが証拠なしに書かれている箇所が多数ある。名誉と感情を傷つけられたうえに、(長女)自身の生活に誤った認識を与える可能性がある」と主張した。またそもそもこの本は、一部の遺族(再婚した3人目の妻側)が百田に喋った一方的な主張を無批判にそのまま記述して出版しており、長女やほかの親族(たかじんの母親・たかじんの弟達など)にも全く事実確認取材がなかったとも主張し、本に記述されている内容(「3人目の妻」側の証言)を否定する具体的証拠も提出した。一方、幻冬舎・百田側は、裁判の中において「たかじん・長女間に親子確執があった」などの記述を裏付ける「明確な証拠」を出すことができなかった。 裁判の結果、長女側の主張がほぼ認められた。この結果を受けて、幻冬舎側は控訴、上告するも最高裁に棄却され、出版差し止めは認められなかったが、合計7箇所について「事実に反する虚偽記述、プライバシー侵害及び名誉毀損」が認められ、賠償金365万円の支払いを命ずる判決が確定している。 たかじんと長女に関するエピソードとしては、『おやじと、娘と、たかじんと(2002年6月9日)ABCテレビ』のなかで、長女からの手紙が公開され、たかじんが号泣するシーンがTVで流れている(その直後、番組共演の秋野暢子が「(他地域で暮らしている長女と)年に一回会うの楽しみ?(長女のことやっぱり)心配やんな。」と声をかけ、たかじんが泣きながら頷くシーンもある)。また、『そこまで逝って委員会 - やしきたかじん追悼スペシャル - (2014年1月25日)読売テレビ』においても、辛坊治郎が『あれほど愛していた娘さんは、中国に留学して中国語もペラペラ』という発言をして、宮根誠司、山本浩之などが「そうですね」と深くうなずくシーンもTVで放映されている。 また、『婦人公論 2015年1月22日号』において長女自身が父・たかじんとの数々の思い出を(独占インタビューという形で)詳細に語っている。 2016年10月、大阪市天王寺区にある法音寺に墓(3人目の妻が建立)と記念碑が建てられる。
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