近代的な精神薬理学のはじまりと限界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 00:06 UTC 版)
「精神科の薬」の記事における「近代的な精神薬理学のはじまりと限界」の解説
近代的な精神薬理学は、1949年のジョン・ケイドによるリチウムの治療作用の発見、あるいは1952年の抗精神病薬のクロルプロマジンの治療効果の発見からはじまるとされる。 その発見は偶然であり、ベンゾジアゼピンとリチウムの鎮静作用は動物にて偶然見つかり、抗結核薬はヒトで偶然に気分を改善し抗うつ薬となり、鎮静剤としてのクロルプロマジンは統合失調症に効果を現し抗精神病薬となった。 フランスの外科医、アンリ・ラボリは、麻酔科医のユグナーと共に遮断カクテル(カクテル・リティック)を用い、致死性の手術後ショック反応を減らすという目的でバルビツール酸系の作用を増強することであり、プロメタジンが試された後に、さらなる効果を求めてクロルプロマジンを試しクロルプロマジンを麻酔薬とみなした。その内容の一例は、クロルプロマジン、プロメタジン、メペリドンといった組み合わせであった。 そして、これとは別にパリにあるサンタンヌ病院のジャン・ドレとピエール・ドニケルは1952年の5月から7月にかけて、麻酔薬の増強といったことにも用いられているが、クロルプロマジンを単独で用いても妄想を緩和したりするといった一連の研究論文を公開する。1970年代には、抗精神病薬による遅発性ジスキネジアの副作用のために各社は訴えられ、100万ドル規模の和解金を支払い、その後20年新しい抗精神病薬の登場はなかった。 フェノチアジンは、殺菌剤や精神科治療薬の基礎となる構造を持つ。 メチレンブルーは、合成染料の1つである。 クロルプロマジンは、最初の抗精神病薬。その化学構造。 クロミプラミンは、初期の三環系抗うつ薬。3つの環が特徴とされる。 カルバマゼピンは抗てんかん薬である。気分安定薬としても用いられる。 オクスカルバゼピン。このように単純な化学構造の違いによっても、別の医薬品として特許が取得しなおされる。 1955年に発売されたのは、トランキライザー(精神安定剤)のメプロバメートであり、その商品名はミルタウンである。多くの雑誌が、ハッピーピル、心の平和の薬などとしてとりあげ、爆発的に販売された。薬局は「ミルタウン売り切れ」「ミルタウン明日入荷」といった張り紙さえした。日本の新聞においても、文化病・都会病、ノイローゼの薬として広告され、主婦のイライラや赤子の夜泣きへの効能が謳われている。世界保健機関による薬物の専門委員会の1957年の、報告書では静穏剤(Traquilizing Drug)、アタラシックなどが非常に急速に使用量が増えて、バルビツール酸系と似た離脱症状が生じているという報告がなされている。乱用の後に市場から姿を消した。 1960年代には、効果の似たベンゾジアゼピン系の薬剤が登場する。ベンゾジアゼピン系は「精神安定剤」として家庭の常備薬のように販売された。トリアゾラム(ハルシオン)は国際的には1977年、日本では1982年に発売された。(以前の睡眠薬と比較して短時間作用のため)翌日への持ち越し効果がなく処方は増加したが、世界中での乱用にもつながった。データのねつ造および副作用の虚偽の報告がなされていることが発覚し、イギリスの保健省はトリアゾラムの販売を中止した。 抗精神病薬のクロザピンには致命的な副作用があったが、遅発性ジスキネジアがないためクロザピンの受容体結合特性を模倣したリスペリドン(リスパダール)、ジプラシドン(ジオドン)、クロザピンの分子構造を若干修正したクエチアピン(セロクエル)、オランザピン(ジプレキサ)が合成され、90年代以降に市場に出ることになる。 1970年代に認可された抗精神病薬のクロザピン。抗精神病薬のなかでも有効性が高いとみられている。しかし、致命的な無顆粒球症の副作用があるため一度市場から撤退した。治療薬物モニタリングの技術の向上により、1990年代に再度市場に登場した。 1990年代に認可された抗精神病薬のオランザピン。クロザピンと同じ有効性をもちながら無顆粒球症がない薬を探索して開発された。しかし、従来の抗精神病薬と有効性に違いはなかった。 1980年代には依存と離脱症状の問題があらわとなったベンゾジアゼピン系にかわり、その市場に新しい抗うつ薬である選択的セロトニン再取り込み阻害薬 (SSRI) が参入した。そして、それも2003年から2004年にかけて、欧米で(SSRIのひとつ)パロキセチンが小児の自殺を誘発するという試験が隠蔽されていたという話題が持ち上がると、双極性障害の売り込みへと変わっていった。 アメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)の所長のトーマス・インセルによれば、およそ60年にわたって同じような薬ばかり作っており、単に販売手法に秀でていたにすぎない。新世代の薬は、従来の薬を上回る有効性を示すことができていない。 市場性のある既成の医薬品の修正を基にした新規医薬品の開発では、精神障害を有するほとんどの人々に対して現状打破をもたらさないでしょう。 — トーマス・インセル、Journal of Clinical Investigation、2009年4月 模倣薬(me too drug)を合成し続ける戦略は限界を迎え、2010年にはグラクソ・スミスクライン、アストラゼネカ、メルクなどの大手製薬会社が精神科領域の薬の開発から撤退を始めた。大手製薬会社の似たような傾向が続いた。この分野の薬は、承認まで平均18年かかる。 偶然の発見からはじまった精神薬理学は、疾患と製薬開発の科学的な基礎となる根本的なデータを欠如したまま60年が経過し頓挫したのである。 精神薬理学は危機に陥っている。データが届き、大規模な実験が失敗したことが明白である…抗うつ薬、抗精神病薬、そして抗不安薬と、精神科の薬の主な3種類の発見はすべて、偶然の臨床観察に基づいてきた。発見の時点では、これらの分子が生じさせる作用の機序は不明だったが、後に抗精神病薬はD2受容体拮抗薬、抗うつ薬はモノアミン再取り込み阻害剤、抗不安薬はGABA受容体モジュレーターであることが明らかになった。…たとえば、ドーパミンD2受容体が抗精神病性の活性の標的だということを示す遺伝的または前臨床データは存在するでしょうか?目下、精神病性障害において、この受容体の発現あるいは機能の異常を示唆する遺伝的なデータは存在しません。…精神病のようにまったく同じことが、うつ病に関するモノアミントランスポーターについても言え、病態生理学に基づく動物モデルは存在せず、抗うつ薬のための潜在的な標的であることを示す説得力のある前臨床データも存在しない。…現在の着想では精神障害に関する合理的な医薬品設計の試みは時期尚早である。 — H. C. Fibiger - Schizophrenia Bulletin, June, 2012 初期の発見に基づいて多くの薬剤が開発されてきたが、それらは神経科学の進歩ではなく、新たにケタミンが気分を改善したり、シロシビンが長期的な気分の改善を生じさせるという偶然の発見が得られている。 このためこれまで異なった作用機序を持つ、従来からある医薬品に再び焦点が当たっている。アメリカでは麻酔薬のケタミンを治療抵抗性のうつ病に投与するクリニックが登場している。イギリスでは、医学研究審議会(MRC)の資金提供を受け、2015年に(マジックマッシュルームの成分)シロシビンを治療抵抗性うつ病の治療に用いる研究が開始され、結果は12人の約半分は服用体験から3週間後に寛解に達した(うつ病の基準を満たさなかった)。MDMAを用いた心理療法の治験が進行しており、また大麻の成分であるカンナビジオール (CBD) は、抗精神病薬の特性が報告されている。 健康の権利に関する国連特別報告者であるダイニウス・プラス(リトアニア語版)は、2017年の国連人権理事会への報告書でも強調してきたことだが、生物医学的な解釈が乱用され過剰に生物医学的に医療化されることで、精神保健の問題を解決するには、問題が起きた脳に対し投薬が必要というように考えられがちになり危機に陥っているが、心理社会的な側面、貧困や暴力からの解放は重要であり、これこそが人権に基づく手法であることを強調してきた。
※この「近代的な精神薬理学のはじまりと限界」の解説は、「精神科の薬」の解説の一部です。
「近代的な精神薬理学のはじまりと限界」を含む「精神科の薬」の記事については、「精神科の薬」の概要を参照ください。
- 近代的な精神薬理学のはじまりと限界のページへのリンク