近代的国家期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/04 09:35 UTC 版)
「サウジアラビアの歴史」の記事における「近代的国家期」の解説
1975年にファイサル国王は甥のひとりに暗殺される。ファイサルの異母弟のひとり、ハーリドが国王兼首相に就いた。ハーリド時代には中央におけるサウジアラビアの政治的な重要性は増し、好調な経済も持続した。 ハーリド国王は1982年に亡くなり、異母弟のファハドが跡を継いだ。 ファハド国王時代には、石油価格が下落し、その結果、サウジアラビアの歳入は低下した。ファハド政権は悪化した収支の中で国を存続させる経済政策を採用した。 イラン・イラク戦争において、ファハド政権はイラクを支持した。ファハドは両国に停戦を呼びかけ、両国は1988年8月に停戦状態になった。ファハド国王はペルシア湾岸6箇国に、相互協力を目的とした湾岸協力会議(GCC)の設立を呼びかけた。 1991年にイラクのサッダーム・フセイン・ティクリーティーがクウェートに侵攻した際(湾岸戦争の開始)、多くの人々がフセインがサウジアラビアへも攻め入るものと考えた。ファハド国王はアメリカや西洋諸国がサウジアラビアに軍隊を送ることを認めた。ムスリムの中には、異教徒が聖地に立ち入ることへの反発を示す人もいた。 ファハドは湾岸戦争中、クウェートの王族をはじめとした40万人のクウェート人のサウジアラビアへの避難を認め、アメリカなど西洋諸国の軍の駐留も認めた。 ムスリムの中には、西洋諸国の軍隊がサウジアラビアに駐留することに怒る人もいた。ウサーマ・ビン・ラーディン(オサマ・ビン・ラディン)もそのひとりである。ウサーマは国王の政策に反対して国を追われた。 2001年9月11日にニューヨークで発生した同時多発テロ事件においては、テロ攻撃を実行した容疑をかけられた人物19人のうち、15人がサウジアラビア出身者であった。 2005年にファハドが亡くなり、異母弟のアブドゥッラーが跡を継いだ。 アブドゥッラーも2015年に亡くなり、異母弟のサルマーンが跡を継いだ。
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