考古学によるサウロマタイ文化とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 考古学によるサウロマタイ文化の意味・解説 

考古学によるサウロマタイ文化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 16:23 UTC 版)

サウロマタイ」の記事における「考古学によるサウロマタイ文化」の解説

紀元前7世紀から紀元前4世紀西部カザフスタンからウラル地方南部ヴォルガ川下流域北カフカスドン川下流左岸に至る広い範囲スキタイ文化類似するサウロマタイ文化分布したサウロマタイ文化起源については明らかではないが、土着のヌル文化に先スキタイ文化中央アジア初期遊牧文化影響して発展した文化であるとみなされるサウロマタイスキタイ同様にイラン系言語母語とする騎馬遊牧民集団であるが、埋葬儀礼動物様式好みなどの点で独自の特徴をもっている。ヘロドトスサウロマタイスキタイアマゾン結婚起源をもつとしているが、実際アマゾン象徴されるように、サウロマタイ文化では女性戦士巫女埋葬址が多数知られており、女性の社会的地位高かったことが判明している。 サウロマタイ遺跡スキタイ同様にほとんどが埋葬址(古墳)である。文化的中心地ヴォルガ川下流ヴォルゴグラードからサラトフにかけての地域ウラル川中流左岸支流のイレク川流域にあったみなされている。サウロマタイ文化全般的傾向としては、ヴォルガ川以東では中央アジア北アジア文化と関係が強くヴォルガ川以西ではスキタイ文化の影響強くみられる紀元前7世紀から紀元前6世紀編年される早期サウロマタイの墓では、被葬者方形竪穴墓に仰臥伸展葬(足を軽く曲げている場合もあり)、北西あるいは西をにして葬られていた。ベレジュノフカ(Berezhnovka)第1古墳群6号墳4号墓やボアロ(ボロダエフカ、Boaro、Borodaevka)D24号墳6号墓では墓壙が丸太覆われ上から火が放たれていた。墓に火を放つ儀礼サウロマタイ広くみられる地下の墓ばかりでなく、地上墓もみられ、ウサトヴォ(Usatovo)F13とF14号墳やボアロE23号墳3号墓旧地表面作られ木槨であった副葬品少なく土器青銅製鏃が主である。土器土器内側か押して口縁部に丸い小さな突起を1列に施した鉢型土器頸部短くややくびれて胴部卵形頸部沿って1列に小孔穿たれた壺型土器頸部に1列の刺突文が施された壺型土器などの粗製の手捏ね土器や、北カフカス特徴的な頸部細く胴部形に膨らんだ壺型土器などの磨研土器がある。青銅製鏃は古い型式両翼鏃や袋穂長い三翼鏃、袋穂が短い三翼鏃である。また、ノルカ(Norka)埋葬址やエンゲルスEngel's)市5号墳3号墓などでは棒状柄頭蝶形の鍔のある鉄製アキナケス剣が注口付き大型壺型土器とともに出土しエンゲルス12号3号墓では紀元前6世紀後半編年される青銅製鏃と共に幅の広いハート形の鍔をもつ剣が発見された。また、ヴォルガ・ウラル両河間のリュビモフカ(Lyubimovka)ラパシン(Lapasin)自然境界1号墳5号墓では紀元前6世紀編年される「腎臓型」鍔をもつ鉄製アキナケス型剣が発見された。この墓は土壙墓丸太覆われ、上から火が放たれていた。 チェリャビンスクのチュリロヴォ(Churilovo)27号墳とスホメソヴァ(sukhomesova)7号墳では裏面に鈕がある円形青銅鏡出土した同様な鏡はアルタイのマイエミール期の資料シルダリヤ下流サカの墓でも知られ紀元前7世紀から紀元前6世紀編年されている。また、オルスク西方のビシュ・オバ(Bish-oba)古墳ではいわゆるオルビア青銅鏡発見された。これは紀元前6世紀から黒海北岸ギリシア人植民市オルビアあるいはスキタイ古墳知られている柄の先端基部スキタイ動物文が付く柄鏡である。ビシュ・オバ古墳は鏡によって紀元前6世紀後半編年されている。 紀元前6世紀編年されるトリ・ブラータ(Tri brata)古墳群25号墳2号墓前期スキタイ特徴的な環状に体を丸めた猛獣表現され青銅製飾板が出土し、またゾロトゥシンスコエ(Zolotushinskoe)砂丘とスースルィ(Susly)古墳群では猛獣型押しされ金製飾板が発見された。 紀元前6世紀から紀元前5世紀サウロマタイ文化が最も発展した時期である。サウロマタイ古墳の分布が北ではバシコルトスタン、南では北カフカスクマ川テレク川方面まで拡大しアケメネス朝ペルシアなどの西アジア製品もたらされた。サウロマタイ文化の中心地サラトフ南方ヴォルガ川下流左岸やイレク川左岸流域にあり、多数古墳残されている。 ヴォルガ川下流左岸のブリューメンフェリト(Blyumenfel'd)A12号墳は墳丘の高さが1.6メートル主体部深さが3.25メートル5.4×4.9メートル隅丸方形の墓壙であり、墓壙の壁は板張りであった推測されている。墓壙は焼けた植物層で覆われ、さらに旧地表面動物骨の堆積検出され、ここで追悼が行われたことを示していた。墓壙南東部に2本の被葬者西南西安置されていた。被葬者南西側には馬骨鉄製ナイフがあり、また左側には鉄製剣と矛が置かれていた。剣の柄頭アンテナ型で鍔(つば)はハート形である。剣には木製鞘の一部残存していた。矛の柄の下端には鉄製石突があった。また、青銅製鏃145点を含む箙(えびら)が右側被葬者足下置かれ左側被葬者枕元には青銅製鏃95点と7点鉄製鏃の入った箙があった。第1の箙には古い型式両翼鏃が含まれていた。両被葬者左側には緑色透明な玉が1点ずつあり、報告者はギリシアとの関係を示唆している。また、イノシシの牙に歯をむき出し猛獣彫刻され馬具一部発見された。このような猪牙製品と歯をむき出し猛獣表現サウロマタイ特徴的である。墓壙北西角と北東角に見られ方形のくぼみでは牝牛牡羊の骨の堆積検出された。南西付近に東西分かれる間仕切りあったようで、西側部分撹乱されていた。墓壙西側には鉄製くつわ3対と青銅製鏃、鹿が彫刻された骨製品があった。馬具には半球形の辻金具グリフィン頭部馬頭部をかたどる飾りなどがあった。A12号墳は鏃の型式などから紀元前6世紀から紀元前5世紀初頭編年される。 イレク川左岸のクマクスキー(Kumakskii)周辺のメチェト・サイ(Mechet-Sai)墓群2号墳墳丘の高さが2.03メートル直径30メートルである。古墳には全部で8基の地下式横穴墓造られていた。主体部古墳中央部位置する2号墳である。墓は入り口から北東方向羨道長さ3.3メートル最大幅1.8メートル)があり、隅丸方形の墓壙(4.7×4.1メートル深さ2.45メートル)の南西角に下りながら接続していた。羨道および墓壙全体は上からポプラ丸太木材覆われていたが、後にその上から作られ4号墓破壊されていた。墓壙の床面直上ではあるいは葦の腐敗物や白亜検出された。墓壙中央に3人の被葬者別々なレベル扇状安置されていた。遺体の保存状態は不良で、右側遺体のみが仰臥伸展葬、南安置されていたことが判明した。他の2遺体レベルから判断して追葬である。それと同じレベル牡羊の骨があり、更にその上埋土から53点の青銅製鏃を伴う白樺毛皮から作られた箙が発見された。右側被葬者頭部付近からは練物ビーズと箙を懸垂するための鉄製鈎が発見された。墓壙北隅には馬の骨と、鉄製銜と銜留具3点)、革紐に付く鉄製青銅金具大型鉄製環などの馬具があった。銜留具は2孔式S字形で、一対のものは両端動物の頭が表現されていた。青銅製品では牙形飾りと幅の太い環があり、前者幅の広い部分山岳山羊頭部かたどられ後者にはフック状の突起に蹄が表現されている。これ以外の場所でも馬骨と羊骨が発見され、馬2頭と牡羊2頭が墓に納められたとみなされるまた、発掘中に発見され断片によって銅製鍑が羨道置かれていたことが推測されている。墓の東側旧地表面で煤や炭が大量に検出され、そこで大きな焚火が行われたことが判明した。墓は青銅製鏃により紀元前6世紀から紀元前5世紀前半編年される。また、主体部以外の他の追葬墓も紀元前5世紀編年されている。 メチェト・サイ古墳群東側位置するピャチマルィ(Pyatimary)第1古墳群8号墳南北28メートル東西径26.5メートルの不正円形の古墳で、墳丘の高さは3メートルであった主体部には旧地表面作られ東西10メートル南北7メートル方形木造構築物があり、四隅構築物支えたの穴が4か所ずつ確認された。構築物の西半分に2.9×2メートル深さ0.8メートルの墓壙が作られ男女子供の3人が仰臥伸展葬、南埋葬されていた。青銅棍棒頭あるいは矛の石突青銅製三翼鏃、鉄製ナイフ断片鉄製札甲断片中央アジア起源する大型赤色磨研土器片が副葬されていた。さらに、東半分には2人戦士旧地表面上に仰臥伸展葬南南西にして葬られており、構築物南側には5頭の馬が陪葬されていた。戦士の頭の近くには長さ1.1メートル鉄製長剣置かれ、柄には太い金製環と房飾り鉄製鈎があった。剣の南側には74本の矢が入った革製箙があり、鉄製鈎を伴っていた。戦士は腰に砥石吊るしていた。陪葬はいずれ鉄製くつわが装着され革紐青銅製の辻金具や環、ラクダ表現する動物文様の飾板などがつけられていた。馬具in situ発見されたため、それらの使用方法明らかになった。古墳出土した剣や鏃の型式によって紀元前5世紀初頭編年されている。地表葬られ2人戦士土壙墓葬られ家族仕える者で、殉葬みなされている。このような埋葬全体木造構造物で覆う方法サウロマタイ特徴的な埋葬儀礼である。 紀元前5世紀末から紀元前4世紀にもサウロマタイ古墳ウラル川流域およびヴォルガ川流域広く分布している。南ウラル地方では前期サルマタイ時代プロホロフカ文化)の埋葬出現しサルマタイ文化登場したが、ヴォルガ川下流域にはまだ及んでいない。この時期属すウラル川流域サウロマタイ古墳では、竪穴墓に被葬者仰臥伸展葬西枕葬られいずれも紀元前5世紀後半から紀元前4世紀特徴的な青銅製鏃を含む箙が副葬されていた。紀元前4世紀以降ウラル川流域ではサウロマタイ文化サルマタイ文化浸透するようになり、サウロマタイ古墳サルマタイ再利用している。文献史料ではこの時期タナイス川(ドン川)に迫っていたシュルマタイ(Syrmatai)という集団記録されている。彼らはサウロマタイのもっとも西にいた集団考えられている。そしてまもなく、サルマタイ登場文献間接的に記録された。

※この「考古学によるサウロマタイ文化」の解説は、「サウロマタイ」の解説の一部です。
「考古学によるサウロマタイ文化」を含む「サウロマタイ」の記事については、「サウロマタイ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「考古学によるサウロマタイ文化」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「考古学によるサウロマタイ文化」の関連用語

考古学によるサウロマタイ文化のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



考古学によるサウロマタイ文化のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのサウロマタイ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS