考古学における文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/31 13:51 UTC 版)
「文化 (考古学)」の記事における「考古学における文化」の解説
類似または近縁の集合物が一定のエリアの同時代層から複数の箇所で見つかれば、特定の人びとを構成員とする集団の活動があったものと考えられ、「文化」と呼ばれる。「考古学における文化」とは、いわば考古学的に観察できるデータの集合であり、見つかった関連する遺物や風習(陶器、家屋の形式、金属加工、葬制など)として定義され、特定の社会集団の物質的表現とみなされる。 このコンセプトを先史時代の遺物の解析へと一般化したのはゴードン・チャイルドである。チャイルドは1929年の自著 "The Danube in Prehistory" において、「文化」(culture)の語に以下のような定義をあたえた。 “ We find certain types of remains - pots, implements, ornaments, burial rites and house forms - constantly recurring together. such a complex of associated traits we shall call a "cultural group" or just a "culture". We assume that such a complex is the material expression of what today we would call "a people".われわれは特定の型式の遺物―ポット、装飾品、葬制および家屋の形式―をたびたび繰り返し一緒に見つけた。このような関連する特徴の複合体を我々は「文化グループ」または単に「文化」と呼ぶ。こういった複合体は今日われわれが「一つの'people'」と呼んでいるものの物質的表現であると考える。 ” すなわち、チャイルドは、各地の博物館に収蔵される遺物を対比して広域編年網をつくるいっぽう、それぞれの遺物に共伴する他の遺物を析出して、つねに繰り返し一緒にあらわれる遺物・遺構群を同定し、これら一括遺物(assemblage)を「文化」と称したのである。 このように規定された「文化」の名は、その場所(標準遺跡、地域名など)や遺物・遺構から名づけられることが多い。例を挙げると、オホーツク海周辺に消長した「オホーツク文化」やメソアメリカのマヤ地域に繁栄した「マヤ文化」が前者、縄文土器に代表される「縄文文化」や古墳の存在が顕著な「古墳文化」が後者である。このような命名は、考古学的な手法を用いて、特定地域における特定の時代の文化の総体を復元していくための作業仮説としての文化設定である。 さらに限定された意味では、たとえば「刀剣文化」などのように、「文化」の語は、遺物すなわち道具の製作の伝統や発展段階を表徴している。このような、物質的文化における特定の要素に着目した用法は、主に旧世界において多く用いられる。石器時代における「旧石器文化」、金属器の開始使用後の「青銅器文化」などの用法は、その延長上にある。 1880年代までに専門学科としての体裁を整えた考古学は、精密な野外調査(フィールドワーク)とグリッド(方眼)法などその記録法の発展、編年法の考案と進展、層位学的研究法の普及・発達などにより、1920年代から1930年代にかけて、他の近代的諸科学にひけをとらない独自の方法と理論を有する学問となった。それからの数十年、考古学研究の中心を占めたのは型式学・編年学にもとづいた文化史の復元作業である。これは、一面「考古学からみた文化の復元」の意味を有する営みである。
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