考古学からとは? わかりやすく解説

考古学から

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 05:49 UTC 版)

インド・ヨーロッパ祖族」の記事における「考古学から」の解説

時代については従来新石器時代紀元前2500年頃(印欧系諸民族歴史現れ時代から大きく遡らない時期)が考えられていた。しかし考古学発展していくと、紀元前4千年紀ウクライナ南部からロシア南東部一帯中心とする、クルガン墳墓墳丘)を建設する文化クルガン文化)を彼らのものとするマリヤ・ギンブタスの説が1960年代出された。 このクルガン文化のうち最も初めに登場した文化サマラ文化やセログラソフカ文化英語版)[要リンク修正]であるが、クルガン墳墓本格的に発展したのはサマラ文化やセログラソフカ文化などを経て出現したヤムナ文化紀元前3600-2300ごろ)においてであった同じよう時代コーカサス山脈挟んで南側広がったマイコープ文化紀元前3700-2500)も、より小規模であるがクルガンを築く習慣があった(マイコープ文化では後にクルガン墳墓積石墳墓習慣にとってかわった)。 この同じ地域の前クルガン時代文化である銅器時代スレドニ・ストグ文化紀元前4500-3500ごろ)もまたヤムナ文化同様に注目されている。これには以下の事実がある。 騎馬文化かつクルガン墳墓文化であるヤムナ文化は、(おそらく世界でもっとも早い時期の)騎馬文化であるスレドニ・ストグ文化から発展したもので、これは初期ヤムナ文化同じく黒海東北岸からコーカサス山脈北麓にかけて広がるスレドニ・ストグ文化本格的なクルガン墳墓を築かない(墳墓は平らで、クルガンとしてはあまりに原初的でありクルガン呼べるものではない)。ただし初期ヤムナ文化晩期スレドニ・ストグ文化時代的重なり紀元前3600-3500ごろ)、この重複時代地方によってはクルガン築かれている。 スレドニ・ストグ文化は、同じ時代黒海西北一帯農耕主体とし、新石器文化守りながらも大都市群を形成していたククテニ・トリポリエ文化紀元前5500-2750ごろ、非インド・ヨーロッパ語族言語使用していた可能性指摘されている)と頻繁に接触し互いに影響し合ったスレドニ・ストグ文化は、牧畜狩猟採集主体としていたもの騎馬習慣のなかったクヴァリンスク文化紀元前5000年ごろ)が発展して発生したものと推測されるクヴァリンスク文化は、馬を日常的に食べ原始的なクルガン墳墓を築く習慣のあったサマラ文化(これも紀元前5000ごろ)の影響受けたクヴァリンスク文化サマラ文化直接発展形態であるのか、あるいはクヴァリンスク文化サマラ文化とは別個に発生したのちにその発展過程サマラ文化影響受けたのか、についての結論はまだ明らかになっていない。 すなわち、コーカサス山脈北側では、クルガンを築く習慣のないクヴァリンスク文化から騎馬スレドニ・ストグ文化への発展過程基幹として、時代によってサマラ文化ククテニ・トリポリエ文化影響を受けながら、本格的なクルガン文化であるヤムナ文化形成していった。いっぽうでコーカサス山脈南側ではもうひとつクルガン文化であるマイコープ文化形成された。(右上参照) 北のヤムナ文化系統と南のマイコープ文化系統は同じ文化的基盤インド・ヨーロッパ祖語話し手文化集団)から発生したのである推測される両系統がその発展過程においても互いに影響及ぼし合っている(すなわち、両者の間に頻繁な人の往来があった)という可能性否定できないヤムナ文化マイコープ文化時代両者の間のコーカサス山脈アララト平原(後には西のエルズルム平原、南のシリア近辺まで)一帯には、銅器時代から青銅器時代にかけての山岳民の文化であるクロ・アラクセス文化紀元前3400-2000ごろ、「コーカサス縦断文化」とも呼ばれる)が存在した。この文化も以下の理由で非常に重要な意義がある。 彼らの生産した金属器は北はウクライナ、南はパレスチナ、西はアナトリアで見つかっており、これはヤムナ文化マイコープ文化の間の人や物や文化頻繁な往来があったことを示す重要な証拠となっている。 クロ・アラクセス文化人々言語は非インド・ヨーロッパ語族ウラルトゥ語フルリ語同系統と見られており、インド・ヨーロッパ語族セム・ハム語族影響受けた可能性も高い。(非主流派であるアルメニア起源説においては、この文化インド・ヨーロッパ語族アナトリア語派系統であるとされている)。 彼らは穀物栽培し粉も挽いたが、同時に様々な家畜の飼育を行っており、後には馬も使用しているため、インド・ヨーロッパ語族牧畜文化の影響強く受けていたと推測されるまた、発掘物からはマイコープ文化影響顕著にみられる別の重要な事実としては、クロ・アラクセス文化人々人類でもっとも早いうちに2輪4輪の「荷車」を日常的に使用していた文化集団であり、荷車をはじめて発明したのはこのクロ・アラクセス文化直前時代のこの地方住民(おそらく紀元前3700年ごろ)の可能性があることである。(いっぽうここから遠く離れたポーランドクラクフ近郊では荷車思われる模式図描かれた、非インド・ヨーロッパ語族のファンネルビーカー文化という新石器時代文化属す紀元前3500年ごろの陶器が見つかっている)。 その後紀元前7千年紀紀元前7000年から始まる千年間)に始まるアナトリア農耕文化が関係あるとするコリン・レンフルーの説も出されたが、これはあまりに古すぎると批判された(例えば、祖語にあった荷車」が紀元前7千年紀という古い時期にあったとする考古学的証拠はなく、最も古い荷車の例は上記のクロ・アラクセス文化や、ポーランドにおけるファンネルビーカー文化陶器の絵のものである)。 ギンブタスクルガン仮説では、中央ヨーロッパ以西におけるインド・ヨーロッパ語族最初期文化としてポーランド中心として北ドイツ西ウクライナなどに広がった球状アンフォラ文化紀元前3400年ごろから紀元前2800年ごろ)が注目されており、この文化は「インド・ヨーロッパ語族第二原郷」とさえ呼ばれている。この文化マイコープ文化影響受けていると指摘する研究者もいる。

※この「考古学から」の解説は、「インド・ヨーロッパ祖族」の解説の一部です。
「考古学から」を含む「インド・ヨーロッパ祖族」の記事については、「インド・ヨーロッパ祖族」の概要を参照ください。

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