考古学から
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「インド・ヨーロッパ祖族」の記事における「考古学から」の解説
時代については従来、新石器時代の紀元前2500年頃(印欧系諸民族が歴史に現れた時代から大きく遡らない時期)が考えられていた。しかし考古学が発展していくと、紀元前4千年紀のウクライナ南部からロシア南東部を一帯を中心とする、クルガン墳墓(墳丘)を建設する文化(クルガン文化)を彼らのものとするマリヤ・ギンブタスの説が1960年代に出された。 このクルガン文化のうち最も初めに登場した文化はサマラ文化やセログラソフカ文化(英語版)[要リンク修正]であるが、クルガン墳墓が本格的に発展したのはサマラ文化やセログラソフカ文化などを経て出現したヤムナ文化(紀元前3600-2300ごろ)においてであった。同じような時代にコーカサス山脈を挟んで南側に広がったマイコープ文化(紀元前3700-2500)も、より小規模であるがクルガンを築く習慣があった(マイコープ文化では後にクルガン墳墓は積石墳墓の習慣にとってかわった)。 この同じ地域の前クルガン時代の文化である銅器時代のスレドニ・ストグ文化(紀元前4500-3500ごろ)もまたヤムナ文化と同様に注目されている。これには以下の事実がある。 騎馬文化かつクルガン墳墓文化であるヤムナ文化は、(おそらく世界でもっとも早い時期の)騎馬文化であるスレドニ・ストグ文化から発展したもので、これは初期のヤムナ文化と同じく黒海東北岸からコーカサス山脈北麓にかけて広がる。 スレドニ・ストグ文化は本格的なクルガン墳墓を築かない(墳墓は平らで、クルガンとしてはあまりに原初的でありクルガンと呼べるものではない)。ただし初期ヤムナ文化は晩期スレドニ・ストグ文化と時代的に重なり(紀元前3600-3500ごろ)、この重複時代は地方によってはクルガンが築かれている。 スレドニ・ストグ文化は、同じ時代に黒海西北岸一帯で農耕を主体とし、新石器文化を守りながらも大都市群を形成していたククテニ・トリポリエ文化(紀元前5500-2750ごろ、非インド・ヨーロッパ語族の言語を使用していた可能性が指摘されている)と頻繁に接触し、互いに影響し合った。 スレドニ・ストグ文化は、牧畜と狩猟採集を主体としていたものの騎馬の習慣のなかったクヴァリンスク文化(紀元前5000年ごろ)が発展して発生したものと推測される。 クヴァリンスク文化は、馬を日常的に食べ原始的なクルガン墳墓を築く習慣のあったサマラ文化(これも紀元前5000ごろ)の影響を受けた。 クヴァリンスク文化がサマラ文化の直接の発展形態であるのか、あるいはクヴァリンスク文化がサマラ文化とは別個に発生したのちにその発展過程でサマラ文化の影響を受けたのか、についての結論はまだ明らかになっていない。 すなわち、コーカサス山脈の北側では、クルガンを築く習慣のないクヴァリンスク文化から騎馬のスレドニ・ストグ文化への発展過程を基幹として、時代によってサマラ文化やククテニ・トリポリエ文化の影響を受けながら、本格的なクルガン文化であるヤムナ文化を形成していった。いっぽうで、コーカサス山脈の南側ではもうひとつのクルガン文化であるマイコープ文化が形成された。(右上図参照) 北のヤムナ文化の系統と南のマイコープ文化の系統は同じ文化的基盤(インド・ヨーロッパ祖語の話し手の文化集団)から発生したものであると推測される。 両系統がその発展過程においても互いに影響を及ぼし合っている(すなわち、両者の間に頻繁な人の往来があった)という可能性は否定できない。 ヤムナ文化とマイコープ文化の時代、両者の間のコーカサス山脈とアララト平原(後には西のエルズルム平原、南のシリア近辺まで)一帯には、銅器時代から青銅器時代にかけての山岳民の文化であるクロ・アラクセス文化(紀元前3400-2000ごろ、「コーカサス縦断文化」とも呼ばれる)が存在した。この文化も以下の理由で非常に重要な意義がある。 彼らの生産した金属器は北はウクライナ、南はパレスチナ、西はアナトリアで見つかっており、これはヤムナ文化とマイコープ文化の間の人や物や文化の頻繁な往来があったことを示す重要な証拠となっている。 クロ・アラクセス文化の人々の言語は非インド・ヨーロッパ語族のウラルトゥ語やフルリ語と同系統と見られており、インド・ヨーロッパ語族やセム・ハム語族の影響を受けた可能性も高い。(非主流派であるアルメニア起源説においては、この文化はインド・ヨーロッパ語族のアナトリア語派の系統であるとされている)。 彼らは穀物を栽培し粉も挽いたが、同時に様々な家畜の飼育を行っており、後には馬も使用しているため、インド・ヨーロッパ語族の牧畜文化の影響を強く受けていたと推測される。また、発掘物からはマイコープ文化の影響も顕著にみられる。 別の重要な事実としては、クロ・アラクセス文化の人々は人類でもっとも早いうちに2輪や4輪の「荷車」を日常的に使用していた文化集団であり、荷車をはじめて発明したのはこのクロ・アラクセス文化の直前の時代のこの地方の住民(おそらく紀元前3700年ごろ)の可能性があることである。(いっぽう、ここから遠く離れたポーランドのクラクフ近郊では荷車と思われる模式図の描かれた、非インド・ヨーロッパ語族のファンネルビーカー文化という新石器時代文化に属する紀元前3500年ごろの陶器が見つかっている)。 その後、紀元前7千年紀(紀元前7000年から始まる千年間)に始まるアナトリアの農耕文化が関係あるとするコリン・レンフルーの説も出されたが、これはあまりに古すぎると批判された(例えば、祖語にあった「荷車」が紀元前7千年紀という古い時期にあったとする考古学的証拠はなく、最も古い荷車の例は上記のクロ・アラクセス文化や、ポーランドにおけるファンネルビーカー文化の陶器の絵のものである)。 ギンブタスのクルガン仮説では、中央ヨーロッパ以西におけるインド・ヨーロッパ語族の最初期の文化としてポーランドを中心として北ドイツや西ウクライナなどに広がった球状アンフォラ文化(紀元前3400年ごろから紀元前2800年ごろ)が注目されており、この文化は「インド・ヨーロッパ語族の第二の原郷」とさえ呼ばれている。この文化はマイコープ文化の影響を受けていると指摘する研究者もいる。
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