略歴・その人柄と周辺とは? わかりやすく解説

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略歴・その人柄と周辺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 17:04 UTC 版)

三味線豊吉」の記事における「略歴・その人柄と周辺」の解説

東京神田生まれ実家材木問屋である。最終学歴淡路尋常小学校6年級長務めるほど成績秀であった。 幼少より芸事好み12歳時に粋人伯父勧めにより芸で身を立てる決心をする。しかし猛稽古によって喉を潰してしまう。 尋常小学校卒業吉原の花界に入り芸者となる本人先輩芸妓踊り名手だった丸子憧れ踊り専門にしたいと希望したが、丸子より「あんたは(猛稽古潰した)声も器量良くないんだから、三味線の方が出世するんじゃないかしら」と言われ長唄常磐津清元歌沢義太夫三味線修行専念することになる。 自身些細なミスによる失恋機に16歳新橋烏森花柳界へと移り、その類まれな三味線の腕と豪放磊落人柄人気集め頭角を表す。 烏森芸者として活躍していた豊吉の評判草創期ラジオ局や、流行歌売り出し力を入れ始めたレコード会社へも届き昭和に入って間も無い頃からまず本業芸者)の専門分野である端唄俗曲伴奏手始めコロムビアレコードレコーディング携わるようになり、1929年昭和4年)頃からはラジオ放送にも出演始めた。 その演奏は、正確な音程もちろんのこと邦楽的ではない複雑なリズムも全く狂うことなく弾きこなし、生涯他の追随を許さなかった。 放送レコードによって瞬く間に豊吉の名は世間にも広まり当時レコード会社全てを股に掛けてレコーディング参加するようになり、後には流行歌伴奏としてオーケストラとの合奏依頼されるうになる日本調の曲を歌う歌手のほとんどの伴奏を手がけ、特に小唄勝太郎市丸赤坂小梅など『芸者』と呼ばれ一世を風靡した歌手伴奏多く手がけていた。放送レコード活躍するようになってからもしばらくは芸者としての籍はあったが、1940年昭和15年正式に廃業し以後三味線奏者としての活動専念した戦後はその豪放な人柄買われNHKラジオ番組とんち教室』の生徒解答者)として出演しそれまで三味線奏者として裏方的存在であった豊吉は一般聴衆にも親しまれるようになりタレントとして地位も築く。 現役芸者だった1924年大正13年)から亡くなるまで新橋駅裏に住み1954年昭和29年4月には3階建て洋風住宅建てた。 この家は後述する海外公演の折、ハリウッド見た映画俳優ボブ・ホープの家に触発され建築したもので、終戦当時新橋闇市などがあったため火災多く独身だった豊吉は住み込み女中居たものの、留守中の類焼による楽器譜面焼失紛失を心配したためにブロック造りの家とした。 舞台で椅子掛けて三味線を弾いていたため稽古場含め部屋のほとんどが洋室で、男性用のトイレ無かったという。(豊吉の話によると「男便所が無いということは、この家には男は泊めないという意思表示で、私が品行方正な証よ」とのことである) 本業三味線では1950年昭和25年)に豊吉流を創流して家元名乗りそれまで単に豊吉としていた芸名三味線豊吉改める。(芸名の改名については、後に触れる) 1951年昭和26年1月には東海林太郎リーダーとする一行5人の一員として海外公演にも参加しブラジル・ホノルル・サンフランシスコ・ニューヨークの各地飛行機巡演した。 また『ラ・クンパルシータ』などの洋楽曲で、三味線主体にした編曲による和洋合奏レコード発売したり、オーケストラ従えてのソロリサイタルを開くなど、当時三味線奏者としては異例活動行なった1953年昭和28年)にはNHK紅白歌合戦出場し、その年初出場旧来より親しかった江利チエミ十八番『カモン・ナ・マイ・ハウス』を演奏した直後乳癌患い右の乳房の切除手術を受ける(執刀癌研外科主宰し、後に院長務め手術神様』の異名をとった医学博士梶谷鐶であった)。手術後の1956年昭和31年)には自身半生をまとめた『豊吉 三味線随筆』を上梓した。 その後昭和30年代歌謡曲ヒット民謡ブーム相乗効果人気絶頂だった三橋美智也膨大なオーケストラ伴奏による民謡レコーディング参加したり、三味線タレント活動以外にも、自身の癌経験を語る取材受けたり座談会参加するなど活躍した最晩年癌の再発脊髄転移)のため寝たきり状態で「治った俗曲常磐津長唄譜面にして遺したい。口伝えでは間違って伝えられる」と意欲を燃やす一方で病院近所小学生に芸の手ほどきをして「自分はもう弾けないから」と愛用三味線その子持たせている。 1964年昭和39年4月8日午後7時3分、東京都新宿区東京医科大学病院にて死去した享年59歌手としてレコーディングした楽曲もある。2006年発売CD-BOXおもしろコミックソング大全集』(ビクターエンタテインメント VZS-1012)には、豊吉が歌唱する「とんちジルバ」「都々逸ブギ」の2曲が収録されている。 芸妓時代から幾度か恋人との同棲や妾としての生活を送ったこともあったが、戸籍上は生涯独身であった親戚筋はあり、また没交渉でも無かったので、天涯孤独というわけではなかった。 没後その生涯は豊吉とも懇意であった後輩江利チエミ主演によって、1968年昭和43年8月3日から10月26日までフジテレビ土曜劇場で『あの妓(こ)ちゃん』というタイトルドラマ化された(但し、このドラマ役名含めてかなりの脚色があり、純粋な伝記とは言えない部分がある。これは豊吉自身何かと秘密の多い花柳界出身であったため、本人経歴一部明らかにていない部分もあったことに起因するものと思われる)。

※この「略歴・その人柄と周辺」の解説は、「三味線豊吉」の解説の一部です。
「略歴・その人柄と周辺」を含む「三味線豊吉」の記事については、「三味線豊吉」の概要を参照ください。

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