留学まで(1899-1915)
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「可児徳」の記事における「留学まで(1899-1915)」の解説
1899年(明治32年)4月に高等師範学校(高師)の助教授に就任した可児は、自身よりも年上の教師陣に囲まれ恐縮しながらも、坪井玄道に付き従って体育指導のため日本中を行脚し始めた。可児は先進地であるドイツの体育から学ぶ必要があると考え、着任翌日に東京外国語学校(新外語 / 現・東京外国語大学)別科に入学した。将来的なドイツ留学を意識したものでもあった。こうして昼間は助教授として学生を指導し、夜間は学生となってドイツ語を学ぶという生活を2年続け、1901年(明治34年)7月に東京外国語学校を卒業した。そこで得たドイツ語の知識は1910年(明治43年)に刊行されたカール・オイレル(ドイツ語版)のDie Geschichte des Turnunterrichtsの翻訳(坪井玄道との共抄訳)に生かされた。また、坪井の影響を受けた高橋忠次郎により日本遊戯調査会が設立されると、可児は1901年7月の設立時から調査会の賛成員として加入して遊戯の流布に努めている。 この頃の日本の体育界は、従来の普通体操・兵式体操とは異なるスウェーデン体操が川瀬元九郎や井口阿くりによって伝えられ、ヨーロッパ各国の遊戯(スポーツ)を坪井が紹介したことで、体操指導の在り方に混乱が生じていた。そこで文部省は1904年(明治37年)10月に「体操及遊戯取調委員」を委嘱し、学校体育の調査研究を命じた。この時、可児も委員として委嘱されたが、留学経験のある川瀬・井口・坪井が委員会の主導権を握っていた。体操及遊戯取調委員によって構成された調査委員会は『普通教育に於ける体操遊戯取調報告』を1905年(明治38年)11月30日に発表するが、その内容はスウェーデン体操を概ね採用するものの、軽体操も条件付きで容認するという玉虫色の決着であり、体操の統一という目的には程遠いものであった。続いて取調報告の解説編として『体育之理論及実際』が1906年(明治39年)7月に公刊されたが、同書は「解説の責任は執筆者個人にあり、委員会とは無関係」との旨を記しており、委員会の中で普通体操・遊戯(スポーツ)派(坪井・可児・高島平三郎)とスウェーデン体操派(井口・川瀬)の対立があったことを物語っている。この対立は後に東京高師での派閥争いに直結するのであった。 また学校体育を巡っては文部省と陸軍省の間で体操に関する考え方の相違があり、その調整を図るべく1907年(明治40年)1月に両省合同の「普通体操及兵式体操調査委員会」の設置がなされることとなった。同年6月に文部省側からは大島義修、三島通良、坪井玄道が、陸軍省側からは林太郎、相良広一、篠尾明済がそれぞれ委員として参加して第1回調査会が開かれた。しかし第1回調査会では両省の非難に終始したことで議論は進展せず、速やかに両省の委員は交代されることとなった。1908年(明治41年)2月28日に可児が後任の委員に選ばれた。しかし文部省と陸軍省の間の意見はここでもまとまらず、1909年(明治42年)9月に委員会は第2次共同調査会として仕切り直しとなり、欧米留学から日本へ帰国した永井道明が中心となって文部省案のとりまとめにかかった。仕切り直しの際に可児は委員から外れている。なお帰国した永井は東京高師の教授に着任したため、すでに10年も東京高師で助教授をしている可児の上司となってしまった。しかし可児はこの時、永井が6歳年上であることもあり特に不満を抱くことはなく、むしろ東京高師の教員層が厚くなることを喜んだ。 1911年(明治44年)、嘉納治五郎は日本人のオリンピック参加のための母体となる組織を立ち上げるべく、学生スポーツが盛んであった東京高師、東京帝国大学(現・東京大学)、早稲田大学、慶応義塾大学の関係者を集めて会合を持ち、大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)を設立する。集まったメンバーは嘉納のほか東京帝国大学書記官の中村恭平、早稲田大学教授の安部磯雄、慶應義塾講師の飯塚国三郎、東京高師教授の永井道明、そして可児であった。当時の可児はオリンピックが何であるか全く知らず、菓子の名前かと思ったと述懐している。1911年(明治44年)11月に羽田運動場で開かれたストックホルムオリンピックの予選会では、マラソン競技を自転車で先導、その時足袋で走っていた金栗四三の姿は今でも目に浮かぶと、90歳目前で迎えた1964年(昭和39年)の東京オリンピックの直前に語っている。可児は金栗がオリンピック日本代表に選ばれた際に「此挙は我邦が世界の運動場裡に仲間入りをした、第一歩であるとして、大いに喜んでよい。のみならず、其成績如何は暫くおき、此挙が、我邦今後の体育に、大なる影響を与うるものであることを特に喜ぶのである。」と祝辞を送った。
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留学まで
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日本統治時代の朝鮮慶尚南道統営出身。本貫は咸安。イサン・ユンとも。東ベルリン事件以降は西ドイツに帰化し、韓国の地を踏むことはなかったが、度々北朝鮮を行き来した。 5歳の時から3年間漢学を教える寺子屋に通い、8歳の時に統営公立普通学校に入学。13歳の時にヴァイオリンを習って旋律を作曲し、町内映画館で自作の旋律が流れるのを聞いて作曲家を志した。父は音楽家になることに反対であり、統営協成商業学校に進学したが、2年後京城で軍楽隊出身のヴァイオリニストから和声法を習い、図書館の楽譜から独学で音楽を学んだ。 商業学校に進学すれば音楽を学んでも良いという父からの許しを得て、1935年大阪市にある商業学校に入学し、大阪音楽学院でチェロ、作曲、音楽理論を習った。1937年統営に戻り華陽学院で教鞭をとりながら、初の童謡集「牧童の歌」を書いた。1939年日本に再渡航し、東京で池内友次郎から対位法と作曲を師事した。1941年戦争に突入すると朝鮮半島へ戻り、1944年独立運動で2ヶ月間投獄された。結核で倒れ、京城帝大病院に入院中に1945年8月の日本の敗戦を迎えた。
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