留学までとは? わかりやすく解説

留学まで(1899-1915)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 02:17 UTC 版)

可児徳」の記事における「留学まで(1899-1915)」の解説

1899年明治32年4月高等師範学校高師)の助教授就任した可児は、自身よりも年上教師陣囲まれ恐縮しながらも、坪井玄道付き従って体育指導のため日本中を行脚し始めた可児先進地であるドイツ体育から学ぶ必要がある考え着任翌日東京外国語学校新外語 / 現・東京外国語大学別科入学した将来的ドイツ留学意識したものでもあった。こうして昼間助教授として学生指導し夜間学生となってドイツ語を学ぶという生活を2年続け1901年明治34年7月東京外国語学校卒業した。そこで得たドイツ語知識1910年明治43年)に刊行されたカール・オイレル(ドイツ語版)のDie Geschichte des Turnunterrichtsの翻訳坪井玄道との共抄訳)に生かされた。また、坪井影響受けた高橋忠次郎により日本遊戯調査会設立されると、可児1901年7月設立時から調査会賛成員として加入して遊戯流布努めている。 この頃日本体育界は、従来の普通体操兵式体操とは異なスウェーデン体操川瀬九郎井口阿くりによって伝えられヨーロッパ各国遊戯スポーツ)を坪井紹介したことで、体操指導在り方混乱生じていた。そこで文部省1904年明治37年10月に「体操遊戯取調委員」を委嘱し、学校体育調査研究命じた。この時、可児委員として委嘱されたが、留学経験のある川瀬井口坪井委員会主導権握っていた。体操遊戯取調委員によって構成され調査委員会は『普通教育に於ける体操遊戯取調報告』を1905年明治38年11月30日発表するが、その内容スウェーデン体操概ね採用するものの、軽体操条件付き容認するという玉虫色決着であり、体操統一という目的には程遠いものであった続いて取調報告解説編として『体育理論実際』が1906年明治39年7月公刊されたが、同書は「解説責任執筆者個人にあり、委員会とは無関係」との旨を記しており、委員会の中で普通体操遊戯スポーツ)派(坪井可児・高平三郎)とスウェーデン体操派(井口・川瀬)の対立があったことを物語っている。この対立は後に東京高師での派閥争い直結するであった。 また学校体育巡って文部省陸軍省の間で体操に関する考え方相違があり、その調整を図るべく1907年明治40年1月に両省合同の「普通体操兵式体操調査委員会」の設置なされることとなった同年6月文部省側から大島義修三島通良坪井玄道が、陸軍省側から林太郎相良広一、篠尾明済それぞれ委員として参加して第1回調査会開かれた。しかし第1回調査会では両省の非難終始したことで議論進展せず速やかに両省の委員交代されることとなった1908年明治41年2月28日可児後任委員選ばれた。しかし文部省陸軍省の間の意見はここでもまとまらず1909年明治42年9月委員会第2次共同調査会として仕切り直しとなり、欧米留学から日本へ帰国した永井道明中心となって文部省案のとりまとめかかった仕切り直しの際に可児委員から外れている。なお帰国した永井東京高師教授着任したため、すでに10年東京高師助教授をしている可児の上となってしまった。しかし可児はこの時、永井6歳年上であることもあり特に不満を抱くことはなく、むしろ東京高師教員層が厚くなることを喜んだ1911年明治44年)、嘉納治五郎日本人オリンピック参加のための母体となる組織立ち上げるべく、学生スポーツが盛んであった東京高師東京帝国大学(現・東京大学)、早稲田大学慶応義塾大学関係者集めて会合持ち大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)を設立する集まったメンバー嘉納のほか東京帝国大学書記官中村恭平早稲田大学教授安部磯雄慶應義塾講師飯塚国三郎東京高師教授永井道明、そして可児であった当時可児オリンピックが何であるか全く知らず菓子の名前かと思った述懐している。1911年明治44年11月羽田運動場開かれたストックホルムオリンピック予選会では、マラソン競技自転車先導その時足袋走っていた金栗四三の姿は今でも目に浮かぶと、90目前迎えた1964年昭和39年)の東京オリンピック直前語っている。可児は金オリンピック日本代表選ばれた際に「此挙は我邦が世界運動場裡に仲間入りをした、第一歩であるとして、大い喜んでよい。のみならず、其成績如何は暫くおき、此挙が、我邦今後体育に、大なる影響与うるものであることを特に喜ぶのである。」と祝辞送った

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留学まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 08:19 UTC 版)

尹伊桑」の記事における「留学まで」の解説

日本統治時代の朝鮮慶尚南道統営出身本貫咸安イサン・ユンとも。東ベルリン事件以降西ドイツ帰化し韓国の地を踏むことはなかったが、度々北朝鮮行き来した5歳の時から3年漢学教え寺子屋通い8歳時に統営公立普通学校入学13歳時にヴァイオリン習って旋律作曲し町内映画館自作旋律流れるのを聞いて作曲家志した。父は音楽家になることに反対であり、統営協成商業学校進学したが、2年後京城軍楽隊出身ヴァイオリニストから和声法習い図書館楽譜から独学音楽学んだ商業学校進学すれば音楽学んで良いという父からの許し得て1935年大阪市にある商業学校入学し大阪音楽学院チェロ作曲音楽理論習った1937年統営戻り華陽学院教鞭をとりながら、初の童謡集「牧童の歌」を書いた1939年日本に再渡航し東京池内友次郎から対位法作曲師事した1941年戦争突入する朝鮮半島戻り1944年独立運動で2ヶ月投獄された。結核倒れ京城帝大病院入院中に1945年8月日本の敗戦迎えた

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