留学と自動車事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:15 UTC 版)
1921年(大正10年)より軍事・社交の勉強のため、「キタ伯爵」の仮名でフランスのサン・シール陸軍士官学校に留学。 翌年には自動車免許も取得し、機械好きな人柄から自家用車(ヴォワザン23CV(フランス語版)、排気量3970cc。)も購入した。 房子妃も合流し、「ごく平民的」と謳われた夫妻は社交界でも評判が高かった。銀行家アルベール・カーンとは家族ぐるみで親交があり、カーンによるプライベートフィルムが残されている。 1923年(大正12年)、滞仏中に自動車の運転を覚え、「一度、稔彦王に腕前を見てほしい」と、当時同じく留学中であり既に運転の覚えがあった東久邇宮稔彦王をドライブを行う。成久王の腕前が怪しかった為、稔彦王は「あなたはまだ危ないからおやめなさい。よほど安全な広い通りならいいが、お気をつけになった方がいい」と忠告したが、成久王は聞き入れず、1923年4月1日には「ノルマンディー海岸の避暑地ドーヴィルまで泊りがけでドライブに行かないか」と稔彦王を誘う。稔彦王はここでも「あなたの運転は、失礼ですが、まだ十分でないからお止めなさい」と忠告したうえで、イギリスに行く約束があることを理由にこれを断って、ロンドンに向かった。 そこで成久王はドライブの相手を同じく留学中の朝香宮鳩彦王に変え、同日朝に妃の房子内親王、御用掛エリザベート・ソビー(フランス語版) (Elisabeth Sauvy)、運転手ヴィクトール・デリア (Victor Déliât) と共にドライブに出発した。 午後4時30分、パリ西方約140kmの地点で自動車事故を起こし、20分後に事故死した。また、後部座席の房子妃と鳩彦王も、それぞれ重傷を負った。 成久王の亡骸はパリに移送され、4月3日夕に駐仏日本大使館に到着した。霊柩は4月21日にパリを発ち、22日にマルセイユを経由して日本郵船の香取丸で帰国の途についた。 5月29日に神戸港に到着し、5月30日に東京に帰還した。神戸では長男永久王(当時13歳)と竹田宮妃昌子内親王が出迎え、東京まで付き添った。6月8日に豊島岡墓地で斂葬の儀が執り行われた。 1935年(昭和10年)、パリ日本人居留団により事故現場に碑が建てられた。
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