留学と石炭研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 01:12 UTC 版)
1912年に三宅驥一がドイツへの留学を推薦するが、留学申請は文部省から「女性が科学の分野で何か価値あることを成し遂げるとは思えない」という理由で却下された。1914年、34歳の時、東京帝国大学理学部教授の藤井健次郎の推薦により、アメリカへの留学が認められた。しかし、留学の条件として、「理科研究」の他に「家事研究」がつけ加えられ、さらに結婚をせず生涯研究を続けるという暗黙の制約があった。シカゴ大学で細胞学の研究を行い、1915年にはハーバード大学のE・C・ジェフリー教授から新しい細胞学的手法を用いた石炭の研究法を学んだ。 1916年に帰国、女子高等師範学校の教師に復職するが、設備や研究費がなく石炭研究を続けることは困難であった。しかし、藤井教授の手助けで1918年に東京帝国大学植物学教室の嘱託となり、遺伝学実験の指導をしながら石炭の研究を続けた。自ら日本各地の炭鉱を回り炭坑のたて穴深く降りて石炭を採取し、顕微鏡で石炭中の植物の種類や炭化の過程での細胞の変化を追跡した。その結果、炭化は微生物によるものという定説を覆し、「地殻変動の過程で植物が堆積物となり、その上下の物質の物理化学的作用によって徐々に炭化していった」という新説を提唱した。
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