留学と出向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 15:29 UTC 版)
「東京電力初の原子炉に沸騰水型が採用された経緯」の記事における「留学と出向」の解説
東京電力は1957年に原子力発電課から英米に留学生を送ることを決め、5月に池亀亮(後副社長)がイギリスに、9月には佐々木史郎(後副社長)がアメリカに留学した。佐々木の場合はメーカーからの留学組と合同で計4名での渡米であった。渡米した4名は2グループに分かれ、佐々木は平田実穂と共にノースカロライナ大学に5ヶ月余りの留学を行っている。当時は英国のコールダーホールの全盛期であったため、ノースカロライナ大学での面接時には何故アメリカ行きを選択したかを問われ、原子力発電課長竹内良市と打ち合わせた想定問答に従い「東京電力は、新しいことを始めようという時、一方に偏した選択をやらないよう、いつも心がけている会社です。(中略)そういうやり方を大事にするという伝統があるからです」と答えている。ノースカロライナでの聴講修了後は、アルゴンヌ研究所での聴講を受けこれも5ヶ月続いた。この間佐々木は、原子力発電のため特別に組まれたカリキュラムを消化する一方で、機密解除されたアルゴンヌ所蔵の資料を次々と本国に送付していた。 また、TAPの活動と並行して、1957年11月には、原子力発電課の永野勇と関西電力から1名の計2名がデトロイト・エジソン(en)に私塾生扱いで招聘され、1959年2月まで滞在し勉強した。この時、高速炉の研究の他、AECの安全審査の議事録、GE社から聞いた技術情報を本社に送ったという。1958年9月になると、GE社とWH社は将来の受注を見据えて日本の電力各社から1名ずつを招聘し、3ヶ月の日程で原子力訓練コースを受講させた(WHが1ヶ月、GEが2ヶ月)。東電から派遣された住谷寛は帰国後社報でPWRの将来性に疑問を投げかけていたという。 一方で原子力発電課の日本残留組もその半数が1957年11月に新設された日本原子力発電に出向し、実際の原子炉導入の実務作業を担い、経験を積み重ねた。このメンバーには豊田正敏や石井敬二(後福島第一原子力発電所副所長)などがいる。池亀亮も帰国後、英国での経験を買われ出向した。佐々木史郎は帰国後は東京電力原子力発電課に戻り「留守番役」であった。
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