留学からヨーロッパデビューまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 16:48 UTC 版)
「田中希代子」の記事における「留学からヨーロッパデビューまで」の解説
1950年、安川の強い推薦により、戦後初のフランス政府給費留学生の一人に選ばれ、8月にラ・マルセイエーズ号で渡航。両親はこの留学に全てを托し、莫大な借金をしてまで渡航費と滞在費を捻出した。なお、この時の留学生は田中を含め計6人だった。他のメンバーは全員男性で、森有正、吉阪隆正、秋山光和、北本治ら。船中では早朝に1時間だけサロンにあるピアノで自主練習が許可されたが、インド洋の波にダウン、以後船嫌いになる。9月25日、パリに到着。パリ国立高等音楽院に入学し、10月より安川に紹介されたラザール・レヴィに師事するも、直後結核を発症、入院と手術を経て療養生活に入る。1951年、レヴィのすすめで同音楽院の卒業試験を受けてみたところ、試験前日まで療養していた(療養中レッスンは1日1時間と制限されていた)にもかかわらず一等賞「プルミエ・プリ」で合格、卒業。 1952年、ジュネーヴ国際音楽コンクールに最高位特賞(1位無しの2位、日本人初の入賞、イングリット・ヘブラーらと同位)。なおこれは日本人初の国際コンクール入賞でもあり、日本音楽界の歴史的快挙であった。その後、同コンクールに落選したピアニスト仲間の園田高弘に、マルグリット・ロンのレッスンを薦め、入門するきっかけをつくっている。1953年、パリのサル・ガヴォーでデビュー・リサイタルを開き、同年ロン・ティボー国際音楽コンクール1位無しの4位(日本人初の入賞)。その後マルグリット・ロンがユダヤ人嫌いであり、田中の師であるレヴィと犬猿の仲であったために順位を下げられたのではないか、と噂された。
※この「留学からヨーロッパデビューまで」の解説は、「田中希代子」の解説の一部です。
「留学からヨーロッパデビューまで」を含む「田中希代子」の記事については、「田中希代子」の概要を参照ください。
- 留学からヨーロッパデビューまでのページへのリンク